袋山村の年貢高

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袋山村の概況と畑方年貢高の推移は、すでに記述したので(第四編第三章参照)、ここでは宝永三年(一七〇六)の元荒川改修によって生じた古川敷の新田開発後における田方年貢高をみていくことにする。袋山村の古川新田は、寛延三年(一七五〇)の新田検地によって、反別三町八反三畝二七歩の地が耕地とみなされ、この高一九石七斗二升四合の査定をうけて年貢地にされた。全村高畑方の袋山村が、はじめて田方を所有する村になったのである。

袋山久伊豆社

 田方年貢は普通現米で納入することになっていたが、袋山村ではしばらくの間代永をもってこれを納めていた。たとえば宝暦九年(一七五九)の年貢勘定帳によると、この年の新田年貢は不作引を除き、下々田四反三畝二四歩でこの年貢は代永八四六文八分、見付田一町六畝歩でこの代永二貫四九文三分、砂田八反二畝一二歩でこの代永一貫五九三文、このほか葭畑や高外の沼地代永など合計永五貫一五〇文七分、つまり金五両一朱余の年貢高であった。

 当時米三五石につき金三六両替とあるので、米一石約一両相場とすると、米五石の年貢高であり、高十九石余の新田高に対し二六%というきわめて低い年貢率である。これは高入された耕地ながら、まだ水損その他で不安定な古川敷であったことによろう。

 その後、天保五年(一八三四)に再度古川新田の検地が行なわれ、反別四町七反五畝三歩の砂田が高二三石七斗五升五合として高入れされた。このほか年代は不明であるが、畑田成の地高一五石二斗三升五合がすでに田方になっており、寛延三年の新田高入を合せ、このときは合計高五八石七斗二升、この反別一三町五反五畝二五歩が田方になっていた。上に掲げたグラフは、この田高五八石七斗余に課せられた天保九年からの年貢高の推移である。なおはじめ代永で納められていた袋山村の田方年貢が、米納に切替えられた年代は不明ながら、このときは米納になっていた。

袋山村田方年貢の推移

 また袋山村はすでに定免による年貢請をしていたが、田方は耕作の不安定な古川敷のため、破免検見による年貢引が多かったとみられる。しかし平均してその年貢高は上昇をみせている。ことに弘化二年(一八四五)までは米二五石台であった年貢は、同三年には三一石台に上昇した。これはおそらく定免切替のときの増米によるものであったろう。さらに文久三年(一八六三)になると、米三八石台の年貢に上昇した。これは田高五八石余に対し約六七%にあたり、七公三民の高い年貢率に近い。しかし袋山村では田方の石盛も低かったので、この反別一三町六反余に対し、一反あたりの年貢高は約二斗八升である。したがってたとえば反取五斗に近い西方村などに比較すると、決して高率な年貢であったとはいえない。