関東郡代は、はじめ関東代官領と称せられ、伊奈忠次・大久保長安・彦坂元成らがこれに任ぜられていたが、大久保・彦坂両氏ともに失脚し、伊奈氏だけが残ってこの職を世襲した。以来寛政四年(一七九二)三月、通算一二代目にあたる伊奈右近将監忠尊が失脚するまで、約二〇〇年にわたり、伊奈氏は関東幕領の地方支配の中心であった。
関東地域の在地支配は、入国当初から利根川・荒川両水系の大改修、ならびに灌漑治水による新田開発の促進を急務としたが、この大事業は、足立郡小室陣屋を拠点とした伊奈忠次から、足立郡赤山陣屋を拠点とした三代忠治、四代忠克に継承されて続けられた。なかでも利根川の東遷、荒川の西遷は寛永年間から承応年間までにほぼ完成され、現在みられる鬼怒川筋を本流とした利根川水系、入間川筋を本流とした荒川水系に整えられたのは特筆すべき事業であった。これにより埼玉東部、利根・荒川の乱流地帯の開発が促進されたのは、すでに第四編で述べたとおりである(第四編第五章第一節参照)。
伊奈忠次および嫡子忠政の所領高は、小室一万石と伝えられるが、伊奈忠政家断絶の後、足立郡二八ヵ村、高七一八七石余が忠次の二男忠治に与えられ、陣屋を足立郡赤山に移した。ついで承応二年(一六五三)その子忠克のとき、弟二人に所領が分知され、以来高三九六〇石が伊奈家の領知高であった。その後関東郡代の陣屋による支配も、明暦三年(一六五七)伊奈氏の屋敷が江戸常盤橋御門内から江戸馬喰町に移されるに及び、次第に馬喰町郡代屋敷が関東幕領農政の中心拠点に移され、幕府地方官僚としての位置が確立されていった。かくて伊奈氏は勘定奉行配下の筆頭郡代としてその職を世襲した。
この関東郡代の役務は、徴税・治水・検地・開墾・治安をはじめ、鷹野役所・関所の管理、公金貸付など関東農政一般にわたり、広範な職域を行使しており、その家臣は寛政期には三八〇余名を数えたという。さらにその支配領域は、そのときによって増減があったが、関八州を中心に駿河・飛騨などで、およそ三〇万石から四〇万石の地域を支配したといわれる。いずれにせよ伊奈家は長い期間世襲で郡代職にあったので、支配地農民と深く密着し、伊奈支配地にはたとえ幕府の要職者であっても手のとどかない治外法権的な面があったようである。つまり伊奈家は高三九〇〇石余の旗本身分にかかわらず、大名格の位置にあったわけである。
このように幕府の地方官僚として特殊な地盤をもっていたかにみえた伊奈家も、寛政四年(一七九二)二月、右近将監忠尊の代「さまざまの不埒」を犯した罪で郡代職を罷免され、その知行地も悉く没収されて永々蟄居(ちっきょ)を命ぜられた。これは幕政史上非常に大きな事件であった。
伊奈といえば、代々関東農政に力を尽し、年来民衆の信望は大なるものがあったと、当時の多くの識者がこれを高く評価している。ことに幕府でも手がつけられなかった明和元年(一七六四)の中山道を中心とした伝馬騒動や、天明元年(一七八一)の上州絹綿貫目改所設置反対の農民一揆は、「いずれも伊奈殿の徳により」(「後見草」)鎮撫されたと伝えられている。しかも天明七年に起った江戸の打こわし大騒動の収拾役を見事に果したのも、後に蟄居を命ぜられた伊奈忠尊であった。当時の覚書には、「扨々惜き事也、伊奈半左衛門殿と申せば、百姓は勿論、町人に至る迄神仏の様に敬ひ申し候処、このごとく家断絶に及ぶは気之毒千万、殊に御由緒と申候ては、上もなき家筋にておしき事共也」(内閣文庫蔵「寛政四子年覚書」)と記されている。
このように百姓・町人から神仏のように敬われていた伊奈氏が、寛政期に至って何故失脚したのであろうか、関東に何か面倒な事件が起きたときは、必ず登場して事件の処理に当ってきた、いわば関東支配の切札的存在であった伊奈を、何故幕府は見放したのであろうか。まずその直接的な要因となった「不埒」といわれた罪状を概括しておこう。この不埒な罪状とは、後でその経過を詳述するが、忠尊の幕府に対する不遜と伊奈家の内紛である。