伊奈忠尊

803~804 / 1301ページ

伊奈忠尊は、実は備中松山城主板倉周防守勝澄の七男である。安永六年(一七七七)年一四歳で伊奈忠敬の養子に迎えられ忠敬の娘を妻にした。当時忠敬には安永元年に生れた六歳になる実子忠善が居たが、何故忠尊を養子に迎え伊奈家の当主にしたかつまびらかでない。

 いずれにせよ伊奈家一二代の当主となった忠尊は、年僅かに八歳の差である忠善を養子にした。この不自然な関係が忠尊・忠善の養父子関係をうまく運ばせなかったことと推測される。しかも忠尊は、八尾という妾に岩之丞という男子が出生したので、この関係は一層微妙なものとなった。大川戸杉浦家文書「伊奈家系譜略」によると「半左衛門忠善嫡男となす故に、妾は忠善を追失し、岩之丞を立てて家督に立てんとなす、故に忠尊謀計を企て終に家を亡ぼす」とある。すなわち忠尊は妾八尾の子岩之丞を家督にするため、養子忠善を邪魔に思ったことは想像できる。

 事実寛政四年の覚書によると「此騒動は御役儀の事にはこれなく、毒害□家督の儀に付ての騒動の由に取沙汰これあり」とあり、家督問題に毒殺計画がからむほど深刻な御家騒動に発展していた。そしてこの養父子の対立を反映し、伊奈家の家臣も忠善派と忠尊派の両派に分れて反目した。これに対し忠尊は忠善派の勢力をかなり強引に抑え込もうとしたことは、「虚を以て上旨に擬して右近之重臣をおし込」とか、「家臣が罪を断するにも事を飾りしよし」というように、のちにこの点を幕府から鋭く追究されていることからも知れる(「寛政重修諸家譜」)。

 ここにいう「右近之重臣」とは、おそらく伊奈家譜代の家老永田半太夫を指したものとみられる。この半太夫は天明八年十一月に職を解任され、足立郡赤山の屋敷に蟄居を命ぜられているが、これが両派の対立を表面化させた導火線であったようである。