伊奈家臣団

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伊奈の家臣団は、寛政年間に三八〇人余を数えたというが、家臣団の構成や職階など、その実態はつまびらかでない。だが現川口市安行の中山次男氏蔵による「赤山陣屋内外屋敷配置図」(村上直氏提供複写図)によると、伊奈家の主な家臣には、赤山陣屋に屋敷が与えられていた。この屋敷地は七、八反歩から二町歩の地であり御陣山から源長寺にかけ隣接して配置されている。

赤山陣屋内外屋敷図(村上直氏提供)

 この図により、当時当所に屋敷を与えられていた家臣を列挙すると、永田九郎兵衛・富田吉右衛門・田口宇右衛門・大河内与兵衛・新井孫八・小野沢清五郎・杉浦五郎右衛門・夏目善太夫・野村藤助・会田孫七・萩原九郎治・八田吉左衛門・大河内文蔵・森丹治・加藤次郎太夫・鈴木庄蔵・豊島庄七・鈴木三悦・石坂幸八・久保庄八・鈴木仁右衛門・金沢縫殿・篠原丈右衛門・桜井幸八・井出喜右衛門・山浦勘介・中江弥五左衛門・八田甚介・大橋隼人・遠山三治・松井直右衛門・牛尾源蔵・山田文吉・萩原舎人・宇田川喜兵衛・緒熊正水・落合永助・阿出川団蔵・夏目小七・勝田次□□・須藤郡治・河野次郎右衛門・成瀬勘治・吉田寿兼・池田文八郎・永田角之丞・奥村吉蔵・遠山三治・根岸彦八・五嶋正貞・小磯杢之丞・小川伴介・吉田藤治の名がみられる。

 このうち永田氏・大河内氏・田口氏・富田氏・新井氏・小野沢氏などは伊奈家譜代の重臣である。また伊奈家騒動に際し、忠善・永田派に属し忠尊への諫言書に署名した者のうち、赤山屋敷を拝領していた者には、杉浦五郎右衛門・森丹治・加藤次郎太夫・会田孫七・豊島庄七・野村藤助らの名がみられる。

 これら家臣の役職は多岐にわたっていたようであるが、忠尊によって処罰された家臣とみられる五一名の当時の役職によってその一端をみると、番頭役・取次役・勘定方役・貸附方役・圦橋方役・取立役・目付役・勝手役・用人手伝役・本所取締役・勘定場方役・広間番役・御金方役・書留役・使者番役・支配方役・在出役・馬役・供頭役・祐筆役・小姓役などがあり、それぞれに頭取がつけられ、かつ見習もいたようである。また在出役は赤山に常住し、本所取締役は本所牢屋敷に常住することになっていた。