伊奈家臣杉浦氏

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伊奈忠尊失脚の直接の要因となった御家騒動にふれる前に、この騒動に、大きなかかわりをもった伊奈氏の家臣杉浦氏の事歴を、まず「杉浦家由緒書」によってみてみよう。

 杉浦家の始祖は、五郎右衛門定政といい、美濃国竹ヶ鼻城主杉浦定元の長子である。定政の妻は深津弥右衛門の娘で、伊奈忠次の妻の妹であり、忠次と定政は合婿の間柄であった。こうした関係から定政は忠次の招きにしたがい慶長二年(一五九七)関東に下って家康に仕え、伊原忠次の配下として代官をつとめた。父定元は慶長五年の関ヶ原戦に大坂方につき、次男定孝とともに竹ヶ鼻城落城のとき戦死した。

 定政は忠次のもとにあって船橋大神宮造営の添奉行などをつとめて活躍し、松伏領大川戸の陣屋御殿を家康から拝領するなど恩典に浴したが、慶長十八年支配所秩父の検見先で病死した。定政の子定次は当時一一歳の少年であったため、伊奈忠次の嫡子忠政がこれを預かり、その成長を待った。しかし忠政は元和四年、年三四歳で病没し、続いて忠政の嫡子忠勝も年九歳で没したため、伊奈忠政家は小室・鴻巣領一万石を収公され家が断えた(後名跡が取立てられた)。このため伊奈家に預けられていた杉浦定次は、浪人郷士の身となり、さきに父定政が拝領した大川戸陣屋御殿の屋敷に引こもった。なお定政には二人の娘がいたが、このうち長女は大河内与兵衛三綱の妻になり、二女は一色氏の妻となっている。定次は、寛文七年七月浪人のまま没し、新方領大松清浄院に葬られた。

船橋大神宮(船橋市)

 その長子定基は、これより先寛永十九年十月、赤山の大河内三綱の宅において口論のうえ従弟一色主税を殺害した後自害した。このため、定次は伊奈十左衛門家の家老酒井忠行の子忠氏を聟養子に迎えこれに家督を継がせた。

 その子は勝政を称したが、実は忠氏にも実子がなかったので松平伊豆守の家老菅沼貞勝の子を、杉浦家の養子に迎えたものである。その妻は伊奈家の家臣越ヶ谷領神明下村会田政信の娘である。

 またその子は定勝と称したが、父に先立って没した。このため杉浦家七代は、祖父勝政の二男勝明がこれを襲った。勝明は享保十五年(一七三〇)関東郡代伊奈忠達によって家臣に登用され、以来三代にわたって伊奈家に仕えた。

 勝明は、はじめ切米二五俵、野扶持五人扶持で赤山陣屋の勝手方に勤務したが、同十六年には赤山陣屋内に屋敷を拝領、翌年御用掛りに転じた。ついで元文二年(一七三七)取立方定役、同四年圦橋役ならびに浅草御蔵立合兼帯役と職歴を重ね、宝暦七年(一七五七)関東川々御普請惣掛り役、同十年家筋由緒ある由にて御用人係格に昇格、同十一年主君より勢州御代参を命ぜられるほど信任された。ついで同十三年には主君の出役廻村に同行を命ぜられ、明和元年(一七六四)には上方筋御用廻りに同行し、麻裃一対白銀七枚の褒賞をうけた。さらに明和二年には淀川浚御普請仕立御用をつとめて時服一着を拝領、同三年荒川洪水に際し千住大橋流失防留御用をつとめ、江戸城焚火の間、寄付廊下において幕府から白銀一枚、そのほか淀川浚普請の褒賞白銀五枚拝領の誉をうけ、明和九年に御役御免を願って許された。

 その子五太夫勝定も明和八年から伊奈家に出仕した。はじめ伊奈家役宅で書留役を勤めていたが、同九年父勝明の隠居により、杉浦家八代目の家督を相続、高三〇俵の禄高をうけ、御用人見習兼書留方を勤めた。そして同年早くも御目付格に昇格、御用人方月番を勤めた。ついで安永二年御用人役に昇任し、野扶持七人扶持格をあたえられた。そして同七年伊奈忠敬から忠尊への家督譲りの儀式を滞りなく勤めこれを褒賞されている。続いて天明七年(一七八七)の江戸飢饉に際しては、御救方御用掛りとして活躍、非常事態収拾の重任を果した。かくて寛政元年(一七八九)には御番頭本役、ならびに御勘定場頭取役に昇格、御年貢金未進吟味掛りを命ぜられた。そして同年九月、奥州仙台廻米滞り催促御用として仙台に出張、米八五〇〇石を舟で滞りなく江戸へ廻米し無事帰府している。

 この奥州仙台からの廻米とは、伊奈家が、かつて仙台伊達氏に貸した公金二万両の代替米であり、これまでもしばしば老臣をして返済の督促に出向させていたが、いずれもその収納が失敗に終っていたものである。忠尊は幕府から公金納入の遅滞を責められるのを憂い、この収納方を定勝に命じた。定勝はこの大任にたえないとして固辞したが、忠尊に説得され、死を賭して仙台に出向した。定勝は仙台の客舎で仙台藩の役人と接衝を重ねたすえ、ついに米穀をもってこれを償わせることに成功した。そして伊奈家ではこれを金に換え無事に未納金を幕府に納入することができたので、伊奈家の名声はますます内外に高まったという。この功により定勝は部屋住頭取役に任ぜられ、定扶持三人扶持を与えられて譜代の老臣格に取立てられた。

 また勝定の子五郎右衛門勝俊も、安永七年に伊奈家に出仕して御勘定場詰を勤めていたが、同九年の関東洪水には川々普請を命ぜられ鬼怒川通りに出張している。ついで天明三年の浅間山大噴火には、その被害状況視察のため上州に出張、同六年には多摩郡長房村御仕置物検使を命ぜられ、同年七月の関東洪水には、水難民救助のため千住宿へ出向、飢人五七〇〇人余を救済している。さらに同年十月「上州筋捕方御用、午閏十月二十四日出立、十月十九日帰着、水戸様より拝領物」を戴いており、続いて同年「十一月二十日川々御普請奉行小見川筋へ仰付られ、御勘定三宅内蔵之助殿・羽田安五郎・佐藤寿兵衛一同相勤、三月十二日帰宅、百十二日目也」と、ほとんど席の暖まる暇のない様子である。ついで翌七年五月には「野州・総州・常州筋人参取締御用、六千三百斤取上ゲ十月帰ル」と長期の出張を勤め、同八年には「上方御用支度計にて相止」んだが、その十二月に「野州筋人参隠売致候者捕方仰付られ、伊藤恒蔵我等出る」と人参の隠売摘発に出張、さらに寛政二年二月、「房州峯岡へ八木十三郎殿御見分これあり、牧場御案内として我等継駕籠にて伝右衛門召連三月に帰着」と房州の牧場案内に出張している。

 このように伊奈氏の一家臣杉浦氏の多方面にわたる職務の動向をみただけでも、伊奈郡代の役向が、広い地域に広範な職域をもっていたことが知れる。杉浦勝俊はこの間、天明五年に勘定場見習役、同八年に御目付格に昇進して書留役上座、翌寛政元年四月には勘定頭役と順調な昇進を遂げた。