伊奈家の御家騒動

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伊奈家内紛の発端は、前記のごとく忠尊の養子忠善と、忠尊の妾腹の岩之丞の、伊奈家家督をめぐる家臣を巻きこんだ争いであるが、この家督争いの事実は、公式文書では表面にでてこない。いずれにせよ忠善派の領袖とみられる伊奈家の重臣永田半太夫親子は天明八年十一月、その理由も公表されず赤山陣屋の屋敷へ逼塞を命ぜられていた。おそらくその内紛の根は早くから深いものがあったのであろう。さらにこの内紛を激化させたものは、忠尊の幕府に対する不遜と乱行であった。

 商品経済の全国的な浸透は、年貢収奪によってのみ再生産を維持してきた封建的支配階級の窮乏を招いたといわれるが、関東郡代伊奈家もこの例にもれず、その家計は時代を経るにしたがって窮迫をつげた。このため伊奈家は宝暦六年(一七五六)に金三万両の御用金を幕府から拝借したが、さらに安永三年(一七七四)にも金一万五〇〇〇両の預り金をうけ、これを資金に諸家へ貸付を行ない、その利息を家計に充当してやりくりしてきた。しかしこの一万五〇〇〇両の預り金は、一五ヵ年季による返済条件であり、寛政元年(一七八九)が返済期限であった。

 ところが同年六月、馬喰町の伊奈家屋敷が類火によって焼失したため、屋敷の再建普請その他を理由に同年十一月、御預金二〇ヵ年の返済延期を申し出た。これに対し幕府の返答は、これを許さず、伊奈家類焼の情状をもってとくに金五〇〇〇両宛三ヵ年賦の返済を申渡した。数々の業績を残して名郡代とうたわれた伊奈忠尊の不遜と乱行はこの頃からつのり、家中の内紛がはげしくなったようである。以下大川戸杉浦家文書によって、この内紛の経過を順を追ってみてみよう。

 まず赤山に逼塞を命ぜられている永田半太夫父子の同志の領袖とみられる杉浦五太夫・野村藤介・会田七左衛門の三名は、寛政二年六月三日、忠尊の実家板倉周防守へ伊奈家の将来を憂えて密訴に及んだ。これを知った忠尊は、同五日、密訴不埒のかどで右三人に逼塞を命じた。その後七月十二日になり、五太夫と七左衛門の役職を免じ、藤介は用人役から取次役に移されて逼塞が解かれた。

 ついで同年十一月十六日、右三名を含めた五四名の家中が連印の諫言書を年寄衆を通して忠尊に提出した。この諫言書の要旨は、「金一万五〇〇〇両の御預金返済は、関東郡代職と引替えにしてでも二〇ヵ年延期を認めさすと、広言して憚からぬ忠尊の幕府に対する不遜な所存に、これはもってのほかと家中の者は驚いている。ことに寛政改革施政中にあって忠尊不行跡の風聞があり、もし幕府隠密によってこれを摘発されるようなことがあれば御家廃絶の原因になりかねぬと一同憂慮している。それというのも元家老永田半太夫を逼塞させてしまったので、御家の非常事態を拾収できる能吏がいない。したがって伊奈家の危難はいよいよ悪化している」ことなどを列挙し、早急に対策を講じることを要求している。

 もちろんこの諫書提出の大きな動機として、永田父子の復職という要求があったことは言うまでもない。これに対し、忠尊は、同月二十六日、年寄衆列座の席で、諫言内訴の趣きは聞届けた、永田親子の逼塞も御免という申渡しを達した。しかし連印家中は、永田父子の蟄居を許しただけで、その復職を認めていないこの申渡しに不満であった。

 寛政二年十一月二十七日に永田父子に忠尊申渡しの報告をした家中の者の書状によると、「このような誠意のない申渡しでは、このたび願いあげた一同の趣意は反映されていない。伊奈家の将来はいよいよ不安であるので、一両日中に桜田様(板倉家)へ陳情に行きたい。もし桜田様でお聞届けのない場合はさらに別途の所存がある。それで一同御咎めにあったときは、伊奈家の危難を救うため何分にも取計いを頼みたい」と決意のほどを書き記している。

 このときは永田半太夫が板倉家の陳情を暫らく見合せるようにとこれを押とどめている。そこで家中は板倉家の陳情は見合せたが、内部でしきりに永田父子再勤の運動をしたようである。しかし年寄衆からその返事がなかったので、同年十二月三日再度家中五三名連印による永田父子再勤願書を年寄衆へ提出した。同じくこのときに差出したとみられる言上書下書のなかで、「扨又御勝手向の儀、御預金の年数も拾五ヵ年相立ち申し候上は、聊宛の臨時御入用等は御座候共、右利倍の潤を以て当時は御勝手向も御丈夫に多分の御有金も御座あるべき筈の処、粗承知仕り候得ば右程の御有金も御座なき趣に御座候、右は半太夫儀初発より年来手掛け申し候儀、其上生得秀才に御座候得ば、当時御勝手向取調べ仰せ付られ候上、元のごとく御勝手懸り仰せ付られ候はゝ」万端行届き御家は安泰であろうと主張している。つまり御勝手向御用の永田半太夫在任中は、預り金の運用による利益で財政に余裕があった筈である。現在の窮乏はまったく永田の蟄居によるものと理解されている。

 ところがこの月忠尊は病気を理由に本所屋敷に引籠ってしまい、翌寛政三年五月まで登城もせずに乱業を続けていたようである。同じく杉浦家文書忠尊不行跡の箇条書覚下書によってその一端をみよう。

一 夜中大勢召連れ野島村地蔵(越谷市)に参詣している。かつまた富田吉右衛門が五度も御目見を願ったのに御不快の由でこれを許さなかったが、中江佐左衛門宅へは度々参り三味線・音曲・酒宴を催している。

一 当春中(寛政三年)病気の由で長く引籠っていた時、公儀へ御届けもなく深川御屋敷へ数ヵ月逗留し、我儘に他行していた。ことに府外遠方へ身分にふさわしくない躰で、坊主・女など召連れ夜中往来していたのは身の危険このうえもないことである。

一 三月以来今日まで家中の者に御目通りを許していない。

一 時節柄の遠慮もなく遊里へ足を入れているが、ことに柳原土手に忍口を仕立て、御供の人数もなく忍んで他行している。

一 思召にかなった者どもには格別の手当や御下げ金を与えている。

一 御普請も財政不如意であるので施工されない状態であるのに、金子は芥のごとく遣捨している。

このほか、藤浪怡悦が事、相生町の事、人参御用御取計後暗き事、尾瀬四郎兵衛が事、大工徳右衛門が事、五宗門が事などが覚書として記されている。これだけでは具体的なことがわからないので、真偽を確かめることはできないが家臣にとっては眼にあまるものがあったのであろう。

 いずれにせよ連印同志の家中は、再三にわたり伊奈家年寄衆の一人新井孫兵衛に半太夫再勤の取次を願い、その返答の催促を続けた。しかし孫兵衛からは返答が得られなかったので、翌寛政三年四月六日、家中五一名の連印をもって、半太夫復職願いを含めた伊奈忠尊出勤要請の願書を提出した。ところがその結果は逼塞を解かれていた半太夫親子が再度の蟄居を命ぜられる始末であった。永田半太夫はこの再逼塞を命ぜられた直後、書状をもって幕府の要人へ内訴状を差出したらしい。それらしい書状の下書によると、

一 昨日赤山へ帰り謹慎中であるが、伺いをたてたところ門〆には及ばず、外出その他を慎しむようにとのことである。

一 有徳院(吉宗)の代から諸借用が嵩み、郡代職相続出来兼ねるので、宝暦六年嘆願のうえ金三万両の拝借をうけ御家の存続をはかってきた。その後また金一万五〇〇〇両の拝借をうけ御奉公滞りなく勤めてきた。ところが忠尊の代に至り、火災そのほか物入りが嵩み勝手向不如意になった。そのうえ忠尊の取計い方が適当でなかったので、家来共が諫言に及んだところ、改心した旨の回答があり、一統安心して精勤してきた。そのとき家来共が申立てた内訴の内容のほかに他意は一切ない。

一 板倉周防守殿は忠尊を隠居させる積りでいるようだが、これは板倉殿の一存であり忠尊の家来共は一向関知しないことである。もし忠尊が幕府から吟味されるような事になれば、善悪はともあれ、旧家であるというだけでは御家断絶は免がれ難いと憂慮にたえない。

一 永田家は代々年寄役を勤めてきたが、四年前から知行所の屋敷に逼塞を申付られた。昨冬逼塞御免となったが役儀は与えられず隠居同様の身分である。このたびの件でもし伊奈家が廃絶にでもなっては残念である。

 いままで伊奈家が勤めてきた役(関東郡代)を滞りなく続けられるようよろしく取計い願いたい。

という趣旨である。

 これは暗に忠尊を隠居させてその養子半左衛門忠善を家督にたて、混乱した伊奈家を建てなおしたい意向をほのめかしているものであった。この嘆願書が幕府に差出されたためか、その月の二十日、幕府からつぎのごとき質問状が伊奈家に対して発せらている。すなわち忠尊の病気欠勤中、郡代職を代行していた忠尊の養子半左衛門忠善が登城したとき、大目付安藤対馬守から伊奈家内紛の実情を尋問した封書が忠善に手渡された。

 そこで伊奈家年寄中の評議によって安藤対馬守への答書が作成され、五月十三日の幕府呼出しに応じて忠善がその答書を提出した。ところがこの答書は、年寄衆の評議によるものでなく、忠尊による直接の答書が必要であるとしてこれは却下された。そこで五月十五日忠尊がはじめて登城に応じ答書を幕府に提出した。これは「伊奈家内紛の風説は、家臣申立ての去冬における一件と思われるが、これはすでに済んだことであり、そのほかのことはまったく心当りがない」という至極簡単な、しかも不愛想な返答書であった。

 この忠尊に対する幕府の尋問に大きな期待をいだき、その結果を待っていた家中は、そのまま何事もなく済みそうな様子に不満をもち、同志の主な家中が、五月十六日以降六月に至るまでの間に、伊奈家内紛の経過を詳細に報告した始末口上書を幕府へ差出したようである。この結果忠尊の激怒をかい、家中への処罰が断行された。すなわち六月上旬杉浦五太夫父子、ならびに野村藤介・会田七左衛門の四名は伊奈家屋敷に監禁され、そのほか同志の家中残らず処罰された。

 なお前記の伊奈忠尊不行跡箇条書もこの六月以降幕府へ差出すために書かれたものとみられるが、実際に提出されたか否かは不明である。その後、伊奈家屋敷に差留中の前記四名のうち、つねに連印家中の筆頭として活動を続けた杉浦五太夫は、同年八月二十四日、伊奈家の将来を案じながら伊奈家屋敷内で病没した。ついで処罰家臣に追打ちをかけるように同年十一月九日、板倉周防守によって家中の取調べが行われ、差留中の三名は本所牢舎入、赤山屋敷で謹慎中の永田父子も永牢、同志の家臣は残らず永の御暇を申渡された。一方忠尊も幕府から家中不取締りの責で出仕をとめられ謹慎を申渡されている。だが翌寛政四年一月九日には早くも出仕を許されており、これらはすべて当時寺社奉行であった忠尊の実兄板倉周防守の裁量によったものであるという。

 これより先寛政三年十月二十四日、忠尊の養子半左衛門忠善は、検見のため赤山陣屋に出向いたが、そのまま出奔して行方不明になっていた。ところが忠尊はこの忠善の出奔を隠して幕府に届けようとしなかった。この事実が幕府の知るところとなり、公儀を蔑視した罪は許しがたいとして寛政四年二月忠尊は関東郡代職を罷免され、ついで同年三月九日知行地没収のうえ永々蟄居を命ぜられ板倉家に預けられた。こうして伊奈家は忠次以来関東郡代職の要職を世襲し、一二代二〇〇年にわたって幕府の体制内に確固たる地盤を築いていたとみられたが、伊奈家内紛が一つの直接的な契機となり、ついに御家改易の処断をうけるに至った。

 その後寛政四年六月四日行方不明であった忠善が隠れ先の比叡山で発見され、ただちに老中松平甲斐守の屋敷に連戻されるに及び再度幕府の取調べが行われ、杉浦五郎右衛門をはじめ本所牢舎の家臣三名、ならびに永田父子は釈放された。一方忠尊は板倉周防守屋敷から松平甲斐守屋敷に移されたが、さらに同年九月十八日南部内蔵頭屋敷にお預けとなった。忠尊はそれから間もない寛政六年八月十五日、蟄居先の南部家屋敷で三一歳の生涯を終え、実家板倉周防守の菩提寺の駒込吉祥寺に葬られた。

 なお杉浦家文書「伊奈家系譜略」によると、忠善が赤山の検見先から家臣小島外守一人をともなって比叡山に出奔したのは、忠尊の謀計に迷惑して逃亡をはかったものであり、これを幕府に訴えでたのは、留守を守っていた小島外守の妻であったという。比叡山から連れ戻された忠善は、義兄弟の間柄にある松平甲斐守の居城大和国郡山城内に御預けとなったが、享和三年(一八〇三)六月御預け御免の自由な身となり、江戸の松平甲斐守屋敷に居住した。文化四年(一八〇七)七月、病いのため年三五歳で没し赤山源長寺に葬られた。

 また伊奈家は寛政四年三月九日御家改易の処断をうけたが、幕府は同十一日、伊奈家代々の勲功を惜しみ、末家伊奈小三郎忠盈に改めて高一〇〇〇石を与え、伊奈家の名跡をつがせた。名跡を継いだ伊奈忠盈はその後代官などを勤めている。

 一方伊奈家の元家臣会田七左衛門は、同年七月、埼玉郡越ヶ谷領七左衛門村、同神明下村、同越巻村に所持した田畑屋敷地二三町五反五畝一四歩を取上げられ残らず御払い入札に付されている。これは伊奈忠尊が欠所を申付けた地であるという理由となっているが、おそらく伊奈家借財の担保になっていたものであろう。

 同じく元家臣大川戸村の杉浦五郎右衛門も、このとき屋敷地二町二反二畝一四歩の地が御払い入札に処せられている。「杉浦家由緒書」によると、「五郎右衛門儀、古来より所持来り候大川戸村屋敷、御由緒も御座候事故、是迄の通り所持致したき段申立て候処、右屋敷は、養父五太夫拝借金引宛に差入れ置き、敢て上納滞り候筋にはこれなく候得共、右近将監自分咎申付け置き候内、右之趣意にて公儀へ申立て置き候趣故、強て申立て候節は右近将監父子の為にも宜からず、右屋敷公儀より欠所仰せ出され候儀もこれある間敷、全く拝借金上納滞りの儀にて御払いに相成り申べく候間、追て時節を以て取戻し所持致すべく申され候間、拠なく願止めに仕る」とある。すなわち五郎右衛門の屋敷地は伊奈家拝借金の引当てとして、すでに伊奈家から幕府に届けられており、公儀による欠所ではないので、時節をみてこれを取戻したらよいと幕府役人から申渡されている。会田七左衛門家も同じ例であったろう。