鷹場村の統制

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元禄期から中断していた鷹場制度は、享保元年(一七一六)八月、八代将軍吉宗によって復活され、鷹場の整備強化がはかられた(第四編第六章第二節参照)。鷹場は、幕府領・大名領・旗本領・寺社領の区別なく設定されたので、鷹場を管理する鳥見、あるいは野廻りは、支配領域を超えた取締りにあたった。したがって、江戸近郊の複雑な領地の入組や、分散による領主支配の弱さを補強することにもなった。

 幕府はこの支配領域を超えた鷹場設定のもとに、享保元年九月、〝浪人査検〟と称し、江戸五里四方の拳場内居住の浪人に対し、その身元調べや現況報告の提出を鳥見に求めたが、その後も、しばしば鷹場内の浪人査検を実施した。また、江戸十里四方の鷹場内では、たとえ猟師であっても鉄砲の所持やその使用を禁じたり、密猟者を通報した者には、褒美を与えるとして密告の奨励策をとっていた。

 これら幕府の措置から、将軍のお膝元である江戸ならびに江戸近郊農村の治安維持を、鷹場機構によって果たそうとはかった一面を窺うことができる。前述のとおり鷹場の管理取締りは、おもに鳥見ならびに野廻りがあたったが、御鷹御用の人足調達や鷹場触の通達、その他鷹場の事務的な処理にあたった御鷹野役所は、関東郡代伊奈氏の管掌下にあった。つまり伊奈氏は鷹場内行政にも、隠然たる権限をにぎっていたとみられる。

 なお拳場ならびに捉飼場村々に発せられた天明八年(一七八八)十二月の「鷹野御趣意」の触書によると、「将軍はつねづね御拳場などの村むらに迷惑をかけないよう、鷹場関係者に注意しているが、近年鷹野御用が多くなり、下々が迷惑していると聞いている。将軍の鷹狩の目的の一つは、農業の状況を知るため、一つは下々の働きを御覧になるため、一つは将軍自身の保養のためである。鷹場村々を厳重に取締ると民家がおとろえ、鳥の居付きがよくなるが、将軍はこれを喜ばない。むしろ鳥が少なくて捕獲量が減っても、人民が繁栄し、戸口が増し、村々が賑わえばはるかにご機嫌である」と達している。

 天明八年といえば、人口の減少した農村に人を集めようとした、いわゆる〝旧里帰農令〟で知られる老中松平定信による寛政改革政治の最中である。この触書によって、天明期のたび重なる災害・飢饉に疲弊した村々の再建に意欲を燃やす、当時の幕府の政治姿勢をうかがうことができよう。