鳥見による農間余業調査

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寛政四年(一七九二)三月、関東郡代伊奈忠尊が改易処分にされたため、それまで関東郡代の管掌下にあった御鷹野役所は、勘定奉行の取扱いに移された。それとともに翌寛政五年十一月、幕府は鷹場内の家作新築や、茶屋・商家営業の禁令を発し、鷹場村々の宅地造成を規制した。天明八年の鷹野御趣意の触書とは矛盾する措置であったが、このころから鷹場村の統制は強化されていった。

 すなわち幕府は翌六年二月、鳥見役人による拳場村々の農間渡世人の一斉書上げを命じた。拳場村々の商家の統制をはかるためである。このとき八条領鷹場組合に所属した西方村の農間渡世人調査を、西方村「旧記四」によってみてみよう。当時、西方村の惣戸数は一六五軒であったが、このうち、西方村は油絞り・酒造・髪結・豆腐・太物・染物・干鰯・質屋など商人・職人一四軒を書上げた。しかし調査にあたった葛西筋の鳥見は、西方村の書上げをもとに家別検分をおこなったが、実数と合わないことを指摘して再書上げを命じた。このため西方村は、改めて駄菓子屋などの小商いを含め数十軒の商人・職人を申告した。このとき、申告しない場合は以後の新規開業はむずかしいという話を聞き、あとからあわてて届出た者もいたという。

 また寛政十二年二月になると、幕府は鷹場内の新規家作や商家の建築を禁止する法令を達した。これにより鷹場村では新規の家作や新規の商家は制約をうけたが、家作がまったく許されなかったわけではない。たとえば西方村「旧記四」によると、文化十一年(一八一四)二月、西方村の百姓が村内行人塚に新規の家作を願うため、代官所の添書を付して葛西筋鳥見役宅に家作願いを提出した。鳥見は、家作の場所は以前検分済の所で鳥の居付きに障りにならないと思うが、近日再検分を行なうといって願書を受理した。その後、鳥見は家作願いの申請者を役宅に招き、都合で検分が遅れていたが、検分が済んだつもりで許可をする。当所は往還通りにあたるので、少々のぞうり・わらじの商いも認める、と申渡したという。きびしい禁令が示されても内実は多分に手心が加えらることもあったようである。

 寛政六年公儀鳥見による農間渡世人の調査が行なわれたのは前述のごとくであるが文政七年(一八二四)十二月にも、代官山田茂左衛門の支配下にある村々の農間渡世人調べが、代官所によって実施された。西方村では、このとき酒醤油商い一軒、質屋稼ぎ三軒を届けでた。この届書は事実と相違していたが黙認されている。たただしこのときの調査は、代官支配地のみを対象としたので、同じ西方村のうちでも旗本領と大聖寺領の商家は除かれている。

 ついで翌八年三月、こんどは鳥表見役人による農間渡世人調べが実施された。このとき西方村では幕領分、旗本領分、大聖寺領分を問わず全村が調査対象となり、豆腐屋・酒屋・湯屋・茶屋・小間物屋・米屋などの商家をはじめ、大工・左官・杣・馬喰・木挽・髪結・絞油・綿打・造花などの職人、さらには飴菓子や水油絞りのかつぎ商いなど四四軒を書上げた。鳥見は、西方村をはじめ他の村々から提出された書上げが不備であるとし、再調査を命じた。ことに柿ノ木村と西方村は、寛政六年の書上げとはいちじるしい相違があると指摘され、寛政六年以降の新規開業者の分は支配代官の添書を付し、改めて願いでるようきびしく申渡された。これにより西方村では再調査のうえ、新規開業の許可願いを添え、五五軒の農間渡世人を書上げた。しかし、これまた寛政六年度の登録者と、今回の文政八年度の農間渡世人名との関係が不明であるとして、ふたたび差戻された。そこで、この文政八年度の農間渡世人の肩書に、たとえば「庄兵衛孫百姓初五郎」というように、寛政六年当時の登録者との関係を付記し、ようやくこれが受理された。鳥見の農間余業調査が、いかに厳密であったかは、これによっても知ることができよう。

 なお、西方村の当時の総戸数は一六〇軒であったから、五五軒という農間稼人の数は、西方村の三分の一以上を占めていたことになる。自給自足経済を基本とした江戸時代の農村にも、すでにこのころは商品経済がすみずみまで浸透し、農業を基盤とした村の構造に大きな変化をみせていたことが察知される。このため農業を基礎になりたっている幕府は、農村の商業工業を規制する必要があり、農間余業調査を実施するとともにしばしば倹約令などの法令を発してこれを取締った。これらは農村の自給体制をなんとか維持しようとはかったものである。

 公儀鳥見による農間渡世人調査の書上げは、こののち文政十年と天保二年(一八三一)に書替えが行なわれたが、天保二年度の書替えにあたっては、八条領では組合三五ヵ村の調書を一つにまとめ、これを冊子にして提出するよう葛西筋鳥見から達せられている。

 また農間渡世人の調査は、公儀鳥見や代官のほか後述のごとく、いわゆる〝文政改革〟の一環として文政十年五月、関東取締出役によってもこれが実施された。このときは、居酒・研屋・湯屋・煮売・料理・茶屋・穀屋・呉服太物・薬種・音曲遊芸・質屋などの項目を設けてつぶさにこれを届けさせている。こののち、天保九年・同十四年・弘化二年(一八四五)、安政二年(一八五五)としばしば関東取締出役によって農間渡世の調査が行なわれた。

 ことに安政二年の調査は、東方村中村家文書の〝調査の案文〟によると、村明細書上の様式がとられ、このなかには村の産物や江戸へ出荷している産物の品名、当所ならびに近隣の市場に出荷する主な物品とその出荷の事由、農間茶屋渡世・旅籠渡世などを書上げさせ、それに家号を付した軒別の家並図を添えるよう例示されている。これら関東取締出役による調査は農村の経済統制をねらったものであり、公儀鳥見による治安の取締りや経済統制は、のちには主として関東取締出役の職掌に移されたともいえよう。