鷹場村の治安取締り

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以上のように幕府による農間渡世人調査でも知れるように、農業を主体とした農村に商人や職人が増大し、また農産物も商品として取扱うようになったので、農民の生活の基盤は物から貨幣に移っていた。このため貨幣を媒介とした博奕や窃盗、あるいは喧嘩口論が流行し、浪人や無宿者が貨幣を求めて村々を横行した。また村びとのなかにも、これをみまねて長脇差をさし喧嘩や博奕をして、村の治安を乱す者があらわれた。

 このため幕府は、将軍のお膝元である江戸近郊の鷹場村の治安に力をそそぎ、御料・私領の区別のない鷹場機構を利用して、その取締りを次第に強化した。当初の治安取締りは、代官支配所単位に組合が結成され各組合ごとに取締役が任命されてこれにあたっていた。たとえば当地域では、享和元年(一八〇一)五月、代官野口辰之助支配所の船渡・大泊・大杉・増林・増森・中島・西方の七ヵ村に、〝浪人立入取締〟の名目の組合が結成され、この取締役に大泊村の甚内が任命された。しかしこの組合は、組合所属の村と村との間に岩槻藩領の村があったり、他代官の支配所村があったり、または元荒川を隔てたりして地域的にも分散していたので、統一的な機能やその効果は期待できなかったとみられ、自然消滅した。

 ついで文化十四年(一八一七)代官吉岡次郎右衛門の支配所となっていた前記村々は、改めて浪人取締組合を結成し十ヵ年季の取締議定がとりかわされた。このうち西方村は「旧記四」によると「取締の儀、八条領三拾五ヶ村申合い、入口これある村々へ傍示杭相建て、其上右一件諸入用助合の議定、文政元寅十月廿四日仕り候」とあり、西方村は翌文政元年の十月、吉岡支配所の新方領組合を離脱し、地域的にもまとまりのある八条領三五ヵ村組合に加入している。八条領域の取締組合は既存の八条領鷹場組合の上にそのまま載せられたわけである。

八条領傍示杭の図

 また幕府でも鷹場村の取締りを重視し、文政三年(一八二〇)十月、拳場村々の取締り役として、大貫次右衛門・竹垣庄蔵・中村八太夫・林金太郎の四代官を任命した。西方村「旧記五」によると、鷹場取締りの四代官は、取締り地域を地域ごとに分担し、代官の手附・手代を日時を定めず不意に廻村させていたという。八条領地域は大貫次右衛門の管掌であったが、大貫次右衛門の手代酒巻浅蔵ほか一名が、予告なしに村々を廻り、村役人の案内もたてず昼夜にわたって取締りにあたった。そして密猟者は勿論、博奕の取締り、無宿者の取締り、風俗の取締り、魚撈の取締り等々、厳重に摘発して廻った。村々ではこれに対し、代官の手附手代が予告なしに来村し、突然村役人宅に休泊したので、大いに迷惑したという。

 四代官の鷹場取締りはその後、東方中村家文書によると、御拳場はもちろん、捉飼場ともしげしげ廻村いたし、博奕その他をきびしく取締るよう御鷹野役所からの指示があったとして、四代官の手附手代による鷹場村の取締りは捉飼場まで拡大されていた。これに対し、捉飼場村の西新井村ほか五四ヵ村は、文政七年に、代官の手附手代による捉飼場巡察は、捉飼場の取締りにあたる野廻り役の廻村と重なり、村々は二重の鷹場取締りをうけて迷惑である。いままでどおり、野廻りの取締り廻村だけに止めてほしい、と訴えていた(越谷市史(三)七三二頁)。

 また東方村中村家文書によると、幕府は文政七年六月、拳場村々の村役人惣代を鷹野役所に呼寄せ、鷹場取締りの強化を指示して請書を徴している。この請書の要旨は、拳場のうち、古利根川・中川・荒川・玉川の渡船場を持つ村々は、渡船場の監視を強めるとともに、渡船場以外の渡川を禁じ、武器・鉄砲類の所持者や怪しい者がいたときは、これを捕えて役所に注進すること、もし抵抗する者がいたときは、拍子木や鉦太鼓でこれを合図し、組合村百姓一同でとりおさえること、面倒に思ってこれをみのがしたりしないこと、というものである。

番木板と鐘の図

 この通達にもとずき、八条領鷹場組合では、武器鉄砲類を所持し、あるいは怪しい者がいたときはこれを合図し、組合村々一同、早速かけつけて搦めとる。この捕物にかかった費用は村々立会のうえ、いかほどかかったとて組合村の高割合で出金する。万一合図しても協力しない村には、これを役所に訴え、捕物にかかった費用は不参の村に全部負担させる、という趣旨の議定書を取かわした。すなわち鷹場村々は、鷹場法度に示された遵守条項のほかに、警察的機能をもった治安取締りの任務が課せられたのである。

 文政十年五月、改革組合が結成され、治安取締り機能は改革組合に移された。しかし、鷹場村にしばしば交付された鷹場法度の条項には、その後も風俗の取締り、博奕の取締りがおりこまれており、鷹場組合に警察的機能が残されていたのは幕末まで変りなかった。