治安の乱れ

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商品経済が浸透し貨幣の流通が一般化してくると、農村の様相は大きな変化をみせはじめ、貨幣にかかわる悪質な犯罪が増大した。博奕の流行もその現われの一つであり、博奕がもとで刃傷事件をおこしたり、貨幣を目あてに強盗や殺人を犯す者が多く発生した。ことに越ヶ谷・大沢両町は、古くからの宿場であり、また越ヶ谷町には六斎市が開かれていた関係上、近郷近在の貨幣経済の中心であった。したがって越ヶ谷宿では早くから強盗や、博奕にかかわる諸事件が発生していたが、時代が下るにしたがい近郷に波及する傾向にあった。そこで以下、おもな事件を大沢福井家文書などによって、年次を追ってみてゆくことにしよう。

 享保年間(一七一六~三五)大沢町の地借伊兵衛は金子を奪う目的で親類の者を殺害した。これが露顕したため捕えられ〝所仕置〟を命ぜられ、元荒川堤で処刑された。そして大房村の元荒川堤防下の死馬捨場に獄門に処せられた。これなどは史料にあらわれたものでは早い例である。

 宝暦九年(一七五九)、大沢町中宿の吹田屋宗五郎は、岩槻領長宮村の博奕場で口論のうえ、長宮村の若者を庖丁で傷つけた。このときはその場で内済にすませたが、その後長宮村の若者がこの疵がもとで死亡したため、宗五郎は下手人として検挙され牢舎入りを命ぜられている。

 安永三、四年(一七七四~五)のころ、越ヶ谷新町の地借権兵衛と、越ヶ谷袋町の新兵衛が、大沢町の貸元二瀬川善次方で博奕中に喧嘩となった。両人は互いに助人(すけっと)を動員し、天嶽寺前の元荒川堤防で乱闘をくりひろげたが、この喧嘩により無宿者の一人が切殺され、そのほか多数の加勢人が負傷した。このため関係者一同が代官所の役人に逮捕され、奉行所の裁許によって新町の権兵衛と袋町の新兵衛は遠嶋を申渡された。越ヶ谷町の役人も町内不取締りのかどで過料銭の罰をうけた。

天嶽寺前の元荒川堤