大沢町三六騒動

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大沢町照光院門前の三六という者は、越ヶ谷町二・七日の市日に近在の商人や農民を集めて大博奕の貸元をつとめ、さらには元荒川の船中で毎日のように三笠付博奕を興行していた。このほか大沢町の食売旅籠屋のなかには、多数の遊女や芸者をかかえ、客から多分の揚代をまきあげたりそのうえ博奕の席では客に法外な押売をするものがいた。

 このことが幕府への箱訴(投書)によって発覚し、寛政二年(一七九〇)十一月、勘定奉行根岸肥前守の下知によって大沢町に手入れが行なわれた。このとき逮捕された関係者は数十人に及んだという。一件は吟味のうえ、翌寛政三年六月裁決された。すなわち三六は遠嶋(ただしそれ以前に牢死)、角力亀こと長右衛門、坊主返こと長八ら六人は中追放、次郎八ほか一名は江戸十里四方所払、食売女を規定人数以上にかかえたり、博奕に関係した旅籠屋の武蔵屋茂兵衛ほか二名は五〇日の手鎖、大沢町役人のうち名主・問屋は銭五貫文ずつ、年寄一同が銭三貫文ずつ、中追放以上の処罰者をだした五人組は同じく銭三貫文ずつ、大沢町百姓一同は一〇〇石につき銭二貫文ずつの過料、とそれぞれ処分の申渡しをうけた。このほか博奕の常習者数十人が非人手下に欠落したが、これは不問に付されている。