文化十年(一八一三)ごろのことである。大沢町の貸元伊之助は、荻島村その他で廻り筒賽博奕を興行したが、これが摘発をうけ、奉行所の取調べをうけた。一件取調べ中、伊之助の身柄は大沢町に預けられ、奉行所申渡しがあるまで謹慎を命ぜられた。
ところが伊之助は謹慎の身でありながら、口銭を稼ぐため仲間の定八を代貸元にし、大沢町仙間宮社地で博奕を興行させた。このとき下総国小文間村の林蔵と、荻島村無宿丈助が賭場荒しにきたので争いになった。定八らの報せをうけた伊之助は、ただちに仙間宮社地にかけつけ、林蔵と丈助を打擲して林蔵を殺害した。
表沙汰になることを恐れた伊之助の知人らは、林蔵の死を病死と称し、小文間村の林蔵の親利右衛門にこれを知らせ、弔慰金を出して示談にすまそうとした。これが奉行所の探知するところとなり、関係者一同が逮捕された。一件は吟味のうえ、文化十年(一八一三)十月、さきに吟味中の博奕一件とともに、曲淵甲斐守役所で裁許の申渡しがあった。
すなわち、弥十郎村百姓伊平ほか六名の者は、荻島村、粕壁宿そのほかで博奕に加わった罪により重敲の刑。荻島村無宿岩松ならびに同村無宿三之丞は、鳩ヶ谷宿その他で博奕を興行した罪により中追放。大沢町百姓伜定八は、大沢町仙間宮社地で博奕興行の貸元をつとめ、小文間村林蔵殺害の一味に加担した罪により同じく中追放。上間久里村百姓忰庄次郎は、同じく仙間宮社地の博奕に加わり、林蔵殺害の一味に加担した罪により重敲。大沢町地借弥三郎ほか二名の者は、同じく仙間宮社地の博奕に加わり、林蔵殺害の一味に加担した罪で中追放。荻島村無宿丈助は、仙間宮社地の博奕場へ小文間村林蔵をともなって出むき、喧嘩をおこした罪により溜場内で手鎖。神明下村百姓常次郎は、さきに越ヶ谷町で博奕を興行したため、奉行所吟味中で村預けの身にあったが、それにもかかわらず、七左衛門村百姓惣右衛門娘みのに横恋慕し、これを断られたのを遺恨に思い、みのの親に難題を申しかけた罪により中追放。大沢町伊之助は、同じく宿預り謹慎中、大沢町仙間社地で定八に博奕の貸元をつとめさせ、喧嘩に出むいて小文間村林蔵を殺害、その死体を仙間社地に捨ておいた罪により死罪。越ヶ谷町百姓清右衛門の同居人万次郎はさきに、大沢町伊之助の開いた博奕に加わり、宿預け謹慎中、林蔵親利右衛門に対し、忰の死を病死と偽り内済にすまそうと画策した罪により重敲の刑。このほか以上の処罰者をだした村の役人と五人組の者も、それぞれ過料あるいは御叱りという処分に付された。