贋銀づくり一件

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天保五年(一八三四)六月十六日、大沢町百姓権右衛門店借の塗師渡世石川屋宗助の弟宗吉、宗助の同居人飾職渡世相之助、ならびに大沢町大工渡世吉太郎の三名が、江戸神田の山王祭り見物中、小伝馬町で町奉行榊原主計頭配下の者に逮捕された。その翌日大沢町に出役した町奉行定廻り役山本兵太夫によって宗助も召捕えられ、深川嵯峨町番屋に拘引された。同月二十日、大工吉太郎は嵯峨町番屋から釈放されたが、あとの三名の身柄は茅場町の大番屋に移され、ただちに入牢を命ぜられた。大沢町役人は嘆願書をもって、三名の者の釈放を願いでたが、一件は贋銀づくりと知らされ驚いた。

 贋銀づくりの主犯宗助は、会津若松馬喰町の出身。文政元年(一八一八)九月、大沢町茗荷屋政右衛門方の食売女として奉行中の、宗助妻りわの妹お百を尋ね、政右衛門の紹介で権右衛門方の貸家に住みついた。天保四年九月、宗助は食売女奉公人の周旋を目的に妻の出身地である越後に旅立ち、翌五年三月、五人の食売奉公人を連れて立戻った。このとき、会津居住の弟宗吉と、餝職相之助をともない、宗助方に同居させた。かれらは塗師稼業に日夜精をだしていたようであったし、近所の交際もよく、怪しい素振りもみえなかっただけに、大沢町の人びとにとっては信じられないできごとであったという。

 入牢を命ぜられた宗助ほか二名の者は、牢内のならわしにしたがい、牢入りの〝つる〟として、宗助が金一両、相之助と宗吉が金三分を牢名主らに出金した。その後も宗助は金子の必要に迫られ、馬喰町足毛屋林蔵を仲介にたて、大沢町や四町野村の知人に牢見舞の無心を要求した。だがこの調達された牢見舞金は途中、仲介者の足毛屋林蔵らに押領され、本人には届かなかったという。このため牢内の宗助は強硬な内容をしたためた無心依頼の手紙を知人に送り金五〇両を要求した。大沢町と四町野村の知人はこの無心に困り、牢内事情にくわしい麻布の江里川助右衛門に相談したうえ、そのまま返事をのばしていた。

 その後八月七日の夜神田無宿直次郎が重追放の構状を持参し、宗助の家主権右衛門方を訪れた。直次郎は宗助と合牢であった由を告げ、宗助が牢見舞が届かないので、関係者一同を引合いにするため〝はい出し願い〟を願うようだと語った。さらに宗助の牢内名主青山百之助が遠嶋の処分をうけたので金子を必要とし、この金子の調達を宗助に迫っていたなどの牢内情報を語り、権右衛門から銭四〇〇文をもらって去った。ついで八月十三日、佐渡の金山送り、水替人足一四名が大沢町に一泊したが、そのうちの一人、八王子無宿虎吉が宗助と合牢であり、宗助は八月十一日に牢死したことを伝えた。

 贋銀作り一件は吟味がすみ、同年九月十日、町奉行所で裁許の申渡しがあった。これによると、相之助と宗吉は贋銀作りの一味の罪により江戸市中引廻しのうえ磔の刑、宗助に贋銀の地銀を卸していた神田の下金屋は、七〇〇匁余の地銀を没収されたうえ重過料の罰、牢内の仲介をつとめ、牢見舞金を横領した足毛屋林蔵は過料銭三貫文の罰、宗助の家財ならびに妻子はお構いなしという申渡しであった。