安政三年(一八五六)十二月、七左衛門村百姓常右衛門方で博奕興行中、関東取締出役安原寿作の手入れをうけ、逃亡した博奕宿の常右衛門を除き一同逮捕された。一件の取調べは勘定奉行本多加賀守役所に移され吟味中、博奕貸元の常吉は入牢を命ぜられ、ほか六名の者は手鎖、村預けとなった。
一件は翌安政四年五月、取調べが終り、奉行所の裁許申渡しがあった。これによると、七左衛門村百姓勝右衛門ほか四人の者は、廻り筒賽博奕に加わり、禁制の堵勝負を行なった罪により重敲、同村百姓常吉は、所々で博奕の貸元をつとめ、〝てら銭〟あるいは〝元の子銭〟と唱えた口銭を徴収していた罪により遠嶋、七左衛門村名主・年寄・惣百姓は村内不取締りの罪により、名主は銭五貫文年寄は銭三貫文、惣百姓は総額銭一二貫文の過料、このほか博奕場から逃亡した常右衛門の捜索に成功しなかった常右衛門の親類杢右衛門は、同じく過料銭三貫文、名主八郎右衛門ほか五人の者は、急度御叱りの処分をうけた。