関東取締出役

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すでに前節でみてきたように、当地域においても博奕を中心とした諸犯罪が享保期以降続出していた。こうした風潮は当地域に限らず、全国的なものであったが、ことに関東地方が顕著であった。これに対し幕府は、鷹場機構を利用し、江戸近郊農村の治安取締りを強化したが、さらに文化二年(一八〇五)に、治安取締りの専従役人を置いて関東諸村の取締りにあたらせた。この役人はいわゆる〝八州廻り〟と称される関東取締出役である。

八州廻り御用旗の図

 関東取締出役の設置は、その動機の一つとして、関東郡代伊奈氏が、寛政四年(一七九二)に失脚した後、関東の取締りが充分に行届かなくなったためこれを補なうために設けられたともいわれる。寛政・享和年間(一七八九~一八〇三)、野州方面の担当代官であった山口鉄五郎が、幕府に建白書を提出している。これによると、関東一帯は御料・私領が複雑に入組んでいるので犯人逮捕がむずかしい。悪党どもを追跡すると他領に逃げこむ。捕縛のため領主に掛合っていると、その間にまた別な領地に逐電してしまい、容易に犯人をつかまえることができない、とその取締り機構の不備をあげ、幕府当局に善処方を要望している(『旧事諮問録』)。この具申に対し、当時の勘定奉行石川左近将監が、関東の四手代官に原案をつくらせ、これをもとに文化二年六月、〝関東取締出役〟を設置した。このとき関東取締出役に任命された者は、関東四手代官の手附のうち、一〇年以上勤めた有能な人物八名が選ばれ、これに手代・足軽・小者をつけて廻村させた。廻村にあたっては、勘定奉行・寺社奉行・町奉行連署の証文を携えていたので、御料・私領・寺社領の別なく、どこへでも入りこんで断りなく犯人を逮捕することができた。

 出役ははじめ、機業(はたおり)地帯として、また温泉場として早くから貨幣経済が浸透していた、上州・野州を主な取締り地域として廻村した。他国者の流入がはげしく、博徒や無宿者がとくに横行していた地帯であったからである。博徒とは、いわゆる田舎侠客とも称し、人の集まる所で賭場を開き、同じ博徒仲間や、ひともうけをたくらむ農民や商人を相手に、〝てら銭〟をまきあげていた者たちである。かれらは多くの子分を養い、無職浮浪の旅びとを保護し、隣接地の親分に対してその縄張りの権利を主張したため、多数の子分を率いて血の雨を降らせることもしばしばあった。

 これら博徒の多かったのが上州・野州で、おもな博徒を挙げただけでも、国定村の忠治、大前田村の英五郎、館林町の江戸屋吉五郎・江戸屋兵衛門、同じく虎五郎、久宮村の丈八、桐生町の半兵衛・弥七、沼田町の源蔵、小斉村の勘助、高崎町の源太郎・玉村の主馬兄弟、大胡村の団兵衛、吾妻村の歌之助など、枚挙にいとまないほどである。

 こうした現象は上州・野州に限らず、その他の関東農村においても、商品経済の進行していた地域の一般的な傾向であり、これら博徒や無宿者による治安・風俗の乱れを取締るには、関東全域に取締出役を廻村させる必要があった。しかし前記のとおり、取締出役は八名の構成であり、少ない人数で広範な地域を取締ることは、事実上不可能であった。文化四年五月、取締出役は二名増員されたが、これとて二名は交代で江戸に残り、奉行所や評定所の連絡にあたったので、実質的には廻村する取締出役は八名にすぎず、依然取締りは充分でなかった。

 このため幕府は、文政九年(一八二六)十月、長脇差を帯し、または槍・鉄砲を携えて徘徊する者は、悪事の有無、無宿者・有宿者を問わず死罪そのほか重罪に処すという長脇差禁止令を布告、翌十年五月、関東全域に三、四〇ヵ村単位の改革組合の結成を指示した。関東取締出役は、この改革組合の取締り機構に直結されたので、その取締り機能はいちじるしく強化された。

 すなわちそれまで代官や領主を通じて個々に行われてきた、風俗や治安の取締りは、関東取締出役に移され、組合単位に統一的に管掌された。これにともない幕府の取締り法令や諸通達も出役を通じて村々に達せられ、かつこれらが出役によって取締られることになった。その後、天保十二年(一八四一)代官の手附手代のなかから二六名の臨時取締出役が新たに配置され治安取締りの一層の強化がはかられるとともに、嘉永三年(一八五〇)には、出役の地域分担が定められるなどその効率化もはかられている。

 本来出役の職掌は、犯罪者の摘発やその逮捕など警察的な業務にあったが、のちには冠婚葬祭など村内慣行の自治面や、商人・職人の規制など経済統制にも関与して広範な権力を行使した。このために取締出役はこれらの諸業務を遂行するため、たえず村々を廻村し、犯罪人の摘発や風俗の取締り、はては経済や自治面の統制にあたる必要があった。

 試みに取締出役の巡回の回数を、弘化二年(一八四五)の日光道中粕壁宿「御休泊調書」(埼玉県立文書館保管文書)によってみると、第18表のごとくである。これによると、弘化二年度一年間に粕壁宿に休泊した取締出役一行は、道案内人を含め延四〇三名、囚人数は七五名(第19表)に達している。このうち関東取締出役は延八五名である。

第18表 弘化2年粕壁宿 関東取締出役休泊
日時 休泊 取締出役名 同行人数 道案内数 日時 休泊 取締出役名 同行人数 道案内数
1月5日 1泊 吉田平右衛門 3 1 6月2日 1泊 吉田平右衛門 3
1月12日 園部弾次郎 3 1 6月6日 1泊 萩原喜右衛門 3
1月23日 渡辺園十郎 3 1 6月6日 吉田平右衛門 3
2月3日 金子七左衛門 3 6月7日 3泊 萩原喜右衛門 2
2月11日 1泊 金子七左衛門 3 6月17日 園部弾次郎 3 2
2月13日 北爪健蔵 2 6月17日 駒崎静助 3 1
2月14日 1泊 田中弥一兵衛 3 6月21日 吉田平右衛門 3 1
2月17日 幡光忠太夫 2 6月26日 1泊 天野伝蔵 2
2月18日 1泊 吉田平右衛門 3 7月1日 園部弾十郎 3 2
2月19日 田中弥一兵衛 2 7月3日 天野伝蔵 2
2月20日 1泊 浜村武右衛門 2 7月8日 1泊 園部弾十郎 3 1
2月26日 1泊 森徳三郎 3 1 7月18日 1泊 田中弥一兵衛 3
2月27日 荻原宇源次 2 7月21日 1泊 富田錠之助 3 1
2月27日 1泊 田中弥一兵衛 3 1 7月23日 1泊 丸山信三郎 3
3月2日 山崎信太郎 3 2 8月1日 佐川東十郎 3 1
3月2日 園部弾次郎 3 2 8月3日 1泊 蜂谷新五郎 3
3月2日 田中弥一兵衛 3 1 8月7日 3泊 今井槍兵衛 3
3月7日 1泊 北爪健蔵 3 1 8月10日 山崎信太郎 2
3月9日 1泊 渡辺園十郎 3 1 8月10日 桑山圭助 3
3月11日 金子七左衛門 3 8月11日 1泊 瀬戸順一郎 3
3月13日 1泊 園部弾次郎 3 2 8月14日 玉田弥十郎 3 1
3月14日 3泊 渡辺岡十郎 3 3 9月2日 1泊 富田鉄之助 3
4月6日 1泊 宮田吉右衛門 5 1 9月5日 1泊 中山誠一郎 3 3
4月4日 森徳三郎 9月13日 1泊 渡辺園十郎 3 1
4月10日 駒崎静助 3 1 9月13日 1泊 藤戸東吾 3 1
4月13日 田中弥一兵衛 9月14日 玉田弥十郎 3 1
4月23日 中山誠一郎 3 1 9月17日 中山誠一郎 3 2
4月24日 1泊 瀬戸順一郎 3 1 9月17日 山崎信太郎 3 2
4月26日 1泊 未村栄蔵 3 10月5日 1泊 山崎信太郎 3
4月28日 宮田吉右衛門 3 1 10月8日 玉田弥十郎
5月4日 2泊 田中弥一兵衛 3 10月11日 瀬戸順一郎 3 2
5月12日 3泊 渡辺園十郎 3 2 10月13日 1泊 駒崎静助 3 1
5月13日 園部弾次郎 3 2 10月23日 富田鉄之助 3 2
5月13日 1泊 瀬戸順一郎 3 1 11月9日 中山誠一郎 3
5月6日 池田鎌之助 11月9日 佐川東十郎
5月13日 玉田弥重郎 3 11月9日 吉田平右衛門
5月19日 中山誠一郎 3 1 11月11日 渡辺園十郎 3 1
5月19日 渡辺園十郎 3 12月3日 3泊 佐川東十郎 3 1
5月20日 森徳三郎 12月10日 1泊 田中弥一兵衛 3 1
5月21日 1泊 駒崎静助 3 1 12月11日 3泊 吉田平右衛門 3 2
5月25日 1泊 玉田弥重郎 3 1 12月19日 1泊 田中弥一兵衛 2
5月29日 1泊 森徳三郎 3 1 12月23日 3泊 駒崎静助 3
6月1日 森徳三郎 3 1
第19表 弘化2年粕壁宿囚人留置日数
日時 囚人数 留置日数
2月3日 1 2
2月4日 2 3
2月6日 1 1
2月23日 1 1
2月23日 2 3
2月25日 3 12
2月27日 2 1
3月4日 3 3
3月14日 1 5
4月13日 1 1
4月27日 1 1
4月28日 2 3
5月6日 1 5
5月10日 4 2
5月11日 1 3
5月20日 1 1
5月21日 2 1
5月21日 2 1
5月23日 1 1
5月29日 1 1
7月18日 4 1
7月18日 1 1
7月20日 4 1
8月3日 1 1
5月5日 2 2
6月7日 1 1
10月8日 1 1
10月29日 6 2
11月2日 1 1
12月3日 3 6
12月8日 3 1
12月10日 6 2
12月11日 3 2
12月23日 6 1