文政十年(一八二七)五月、改革組合結成の指示をうけた村々では、組合村を構成し、幕府が発した四四ヵ条の改革法令にもとずき、〝副議定〟〝添議定〟の名目で、領中組合議定をとり結んだ。村々ではまたこの組合議定にもとずき、それぞれ村方議定をとり結んで改革法令の徹底を期している。
たとえば東方中村家文書文政十一年五月の「御改革につき別紙村方議定」によると、(1)農業休日を設け、定められた休日のほか仕事を休んでいる者は処分する。(2)博奕ならびに賭の諸勝負は一切行なわない。この掟に背いたときは、博奕宿は銭一五貫文、博奕の参加者は銭三貫文、博奕宿の五人組は同じく銭三貫文の過怠銭を徴収する。(3)念仏講・観音講・嫁講などの講事は社堂を使わず酒食はしない。(4)田畑の作物、ならびに竹木を盗まない。盗んだ者は過怠銭を払わせる。このほか御用向で村役人が集会したときは、出席者一人につき銭六〇文を支給する。諸勧化に宿を貸したときは、一人一泊につき銭一〇〇文を支給する、などのとりきめをしていた。
2月 | ○朔日 | ○初午 | 8日 | ○15日 | 22日 | 28日 | ||
3月 | ○朔日 | ○3日 | 8日 | ○15日 | ○18日 | 22日 | ○28日 | |
4月 | ○朔日 | ○8日 | ○15日 | 22日 | 28日 | |||
5月 | ○朔日 | ○5日 | 8日 | ○15日 | 22日 | ○28日 | ||
6月 | ○朔日 | ○8日 | ○15日 | 22日 | 28日 | |||
7月 | ○朔日 | ○7日 | 8日 | ○14日 | ○15日 | ○16日 | 22日 | ○28日 |
合計 37日 内○印は女 24日 | ||||||||
外 田うない,田うえ,田の草,虫おくり,神酒,三十三巻経 計6日 | ||||||||
6月8日(百万遍) |
2月 | ○初午 | ○朔日 | ○15日 | ○28日 | ||||||||
3月 | 朔日 | ○3日 | 6日 | 10日 | ○15日 | 18日 | ○21日 | 24日 | 28日 | |||
4月 | 朔日 | 6日 | ○8日 | 10日 | ○15日 | 19日 | 24日 | 28日 | ||||
5月 | ○朔日 | ○5日 | 6日 | 10日 | ○15日 | 19日 | 24日 | ○28日 | ||||
6月 | 朔日 | 3日 | 6日 | ○8日 | 10日 | 12日 | 15日 | ○17日 | 19日 | 24日 | 28日 | |
7月 | 朔日 | 6日 | ○7日 | 10日 | 15日 | ○16日 | 19日 | ○24日 | 28日(跡より14日休み) | |||
8月 | 4日(不動) | 朔日(八朔田実之祝) | ||||||||||
9月 | 9日(重陽時宜によりて) | ○28日(不動四郎) | ||||||||||
合計 53日 内○印は女 19日 |
また文政十三年五月の八条領組合副議定では、諸職人の手間賃ならびに諸商品の値段は勝手に値上げしない。農休日は定められた通りにし勝手に休まない。博奕など賭の諸勝負はやらない。花火や神仏参詣旅行はやらない。講事は定められたほか行なわない。これらのことに背いた者は、「御出役様へ逸々申上るべく候」とて、関東取締出役の威力を背景に、村々の秩序と治安の維持を組合の組織を基盤に押進めようとしていた。
このほか諸費用のとりきめでは、送られてきた囚人一人につき、村役人一人と番人足を三人つけるが、これらの監視人の手当ては、一昼夜あたり一人につき銭三四八文に定める。関東取締役が廻村してきたとき差出す継立人足は、一人につき一里あたり金八八文とする。ただし駕籠や両掛りは一挺につき人足三人をつけ、廻状持廻り人足は昼一人、夜二人をつける。出役が旅宿した村には、出役が支払う御定木銭米銭のほか、人足賃や茶代として、出役一人につき銀五匁の補助金を支給する。同じく手先の者には銀二匁を支給する。大小惣代が御用で出張したときは、一日あたり銀二匁を手当てする。ただし遠方へ出張のときは一日あたり銀四匁の手当てをする。これらの出費はすべて組合村の高割合で徴収する、と定めていた。このほか八条組合村々では、旧来の五人組の組合せを、「組合の儀は、軒別に三軒づつ相極め候上は、互に改合い申すべく候事」とあるように、三人組に組替え隣人どうしの監視を強化していた。
こうして改革法令にもとずいた組合議定、村議定が制定され、しかも三人による相互監視の体制が強められたが、議定の違反者は跡を絶たなかった。たとえば、文政十三年七月、八条領村々の有志が、富士参詣と称し、富士登山に向ったが、その実西国順礼に向ったことが露顕し、西国順礼の同行人をだした関係村々の村役人が、大小惣代中に詫書をだしている(越谷市史(三)七六八頁)。
また同年同月、関東取締出役の手帳に悪者として記され監視されていた西方村の一一名の者が、村役人に、出役へお許しのとりなしを願う詫書をだしている(越谷市史(三)七六七頁)。悪者のリストに載せられたこれらの者は、いずれも農業を怠って、遊び歩き、野田で博奕を開いたりあるいは博奕場などで食物商いをしていた者達である。その名前も五助熊とか丑松とかの異名をもち博奕をもっぱらにしていた者もいた。
その後、天保三年(一八三二)七月、同じく西方村の若者一二名が、野田博奕を行ない、あるいは無届けの質稼ぎを働いていたのが発覚し、村役人の取調べをうけて詫書をとられている。このほか喧嘩・酒食会合・不法家作・神仏参詣・講事・祭礼・農間稼ぎなど、議定にふれる行為が減少しないばかりか、むしろ増大の傾向にあった。このため幕府は天保二年・天保十三年・嘉永元年に、文政十年の改革法令を遵守するよう改めて取締り法令を発し、関東諸村から請書を徴していた。組合村々ではこれまたそのつど、改めて組合議定・村議定を制定し、改革議定の確認を村人に徹底させようとはかった。
一例をあげると、嘉永元年九月、幕府の取締り法令にもとずき、東方・見田方両村の〝再議定〟が、とりきめられたが、その要旨は、
(1)博奕そのほか賭の勝負ごとは御法度につき、五人組仲間で監視を強める。もし博奕を行なったときは、博奕宿は銭一五貫文、参加者は銭五貫文、博奕宿の隣家は銭三貫文、五人組は銭五〇〇文の過怠銭をかけ、これを役所に訴えでる。
(2)田畑の作物、ならびに竹木葭萱にいたるまで、無断でこれを盗みとる者は議定の通りの過怠銭をとり、役所に訴えでる。
(3)農間余業を専らにし、農耕を怠っている者は、容赦なくその筋え訴えでる。
(4)田植のとき、近所や組合で助け合いするのは、かえって物入りが嵩み迷惑するので、病人そのほか働手のない家は格別、以来は助け合いを停止する。
(5)農休日は、文政度の改革議定領中連印書にもとずき、無届けによる休みをした者から、銭三貫文の過怠銭をとる。
(6)講事統制の議定がまだ尊守されていないので、以来は何事によらず村内堂寺に集会し酒食を供することは一切禁止する。
(7)葬式は一汁一菜簡素にし、他村のお悔みには参会しない。
(8)喧嘩口論、あるいは強訴など、一味同心して村方を騒がせる者は、ただちに取締出役にこれを訴えでる。
(9)若者仲間と唱し、度重なる制禁にかかわらず、まだ寄集まって不法を働いている。以来はたとえ角力競技などでも若者が集会することは禁止する。
というものである。これらの箇条のうち、農休日の制定や講事の規制、博奕の規制、農間余業の規制、田畑作物の窃盗規制など、若者を対象に設けられた議定が多い。ことに若者組は村内の秩序を乱すものとして、取締りのまとになっていた。
幕府でもすでに、文政十一年「若者仲間と唱え、大勢組合い神事祭礼人寄、悪敷ことのみ企てに付」として、若者組禁止令を布告していた。事実貨幣経済の影響を強くうけたのは若者であり、生活手段の多様化とともに、農業を嫌い家を離れ、博奕に興じるなど、村内の旧秩序から逸脱する行為の多かったのは若者であった。このため身持の悪い忰など、幕府から罪人として捕えられることを恐れ、勘当帳外を願ってその連座を免がれようとする親が珍らしくなかった。