天保改革と経済統制

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幕府にとっては、幕府財政の基盤である農村に商品経済が進行し、農民の生活様式が向上することは、年貢引上げの停滞もしくは減少となって現われるので、しばしば倹約令を発して農民の経済生活を規制した。ことに文政の改革法令は、治安の取締り強化とともに、農村における商人職人の統制を目途にしたもので、治安取締りと経済統制がこの改革法令の二つの柱になっていた。

 当地域では、すでに寛政年間から文政年間にかけて、鷹場鳥見役による農間渡世人の実態調査が行われていたが、関東取締出役による農間渡世人の調査は、改革法令が発せられて改革組合の結成が指示されるとともに農間渡世人を書上げさせている。ただし越ヶ谷組合と八条組合は、改革組合村の編成替を願っていたので、改めて再編成が許された文政十二年五月に農間渡世人の調査を行った。調査の目的は「関東筋村々の内農間諸商人が多く、田畑作り余り、其上奢りに長じ良民難儀に及び」との趣旨からであり、とくに居酒屋湯屋・髪結・質屋を対象に行われた。このとき八条組合西方村では、商人職人五二軒のうち、居酒屋・煮売屋・湯屋・髪結の渡世人一三名と、質屋四名を書上げている。

 ついで翌文政十三年、職人手間代統制の通達が関東取締出役を通じて通告されている。これは前年、江戸神田佐久間町から出火した火が、芝から鉄砲州にかけての大火になったため、江戸近郊村々から諸職人の出稼ぎがふえ、在村の職人が少なくなった。これにつけこみ、〝太子講〟などと唱えた職人組合では〝朝早出、夕遅行〟と称し、手間賃の引上げをはかっていたのに対しとられた措置であったという。このとき提出した八条組合東方村における職人手間賃調べの書上げは第21表のごとくであり、たとえば大工の賃金は大火前が金一分につき七人の割合であったが、大火後は六人の賃上げになっている。これに対し幕府は、手間賃の引上げをきびしく監視させた。

第21表 文政13年東方村職人手間賃(金1分につき)
職種 大火前 大火後 人数
大工 7 6 2
桶屋 7 7 2
屋根屋 8 7 5
8 7 2

 さらに天保二年(一八三一)の関東取締出役を通した通達では、葬式や食生活の簡素化を訓告するとともに、墓石の大きさを制限したり院号・居士号の戒名を禁止したり、助郷人足の弁当や会合のときの酒食までも規制したりして農民生活の慣行を抑圧しようとはかった。また天保七年の飢饉に際しては、新規米商人の禁止や隠米の摘発、ならびに酒造の統制などを行ない、改革組合と直結した関東取締出役の活動は、広範な取締り機能を発揮させていた。

 続いて天保十二年閏正月、大御所といわれて幕政を蔭で支配した一一代将軍家斉が死ぬと、ときの老中首座水野忠邦の指導する天保の改革が断行された。改革の目標は、享保・寛政期の政治に復帰させることにあるといわれ、天保の飢饉で荒廃した農村を再建し、農民を年貢納入者の地位に据え直すため、自給自足の農村体制に戻すことにあった。このため文政改革法令遵守の一層の強化がはかられたが、なかでも経済統制はいままでにないきびしいものであった。天保十三年九月に公布された「村々風俗其外之儀に付御触書」によれば、百姓は粗服をまとい、髪もわらで結ぶのが古来からの風習であるのに、近来は奢侈に流れ、髪も油や元結を用いている。雨具もみのや笠を用いず傘や合羽をつかっているのはもってのほかときめつけ、また農業以外の酒食商いや湯屋髪結などの営業はみとめない方針をしめしている。

 これより先の同年七月、関東取締出役によって取締向口達書が村々に示されたが、八条組合ではこの口達書にもとずき三七ヵ条にわたる「御趣意に付諸向取極議定」を中山誠一郎以下一二名の関東取締出役宛に提出していた。この議定のうち経済統制の関係項目を抄出すると、その要旨は次のごとくである。

 (1)諸商い物は、現在の値段より一割から二割の値下げをして売る。

 (2)萠し物ならびに前栽物は季節のもののほか売買しない。

 (3)飴菓子・果物すべて飲食の品は二割半の値下げをする。

 (4)居酒や煮売物は、往還通り以外では売買しない。

 (5)豆腐や油揚は大豆相場の下落にともない格別に値下げする。

 (6)職人どうしの仲間組合をつくることは勿論、仲間の会合も停止する。

 (7)大工・木挽・建具・桶屋・黒鍬・畳差の手間賃は、金一分につき七人とする。

 (8)杣取・車力・仕事師・屋根葺の手間賃は、金一分につき八人とする。

 (9)左官の手間賃は金一分につき六人、瓦葺・石工は五人とする。

 (10)髪結賃は、一人につき銭一八文と定め、新規の商売は認めない。

 (11)綿打賃は雇打が百目に付銭二八文、渡し打が百目につき銭三二文に定める。

 (12)日雇賃は男一人につき銭一二四文、女一人につき銭八〇文に定める。

 (13)駄賃は道程一里につき銭一〇〇文とする。

 (14)渡船場の渡し賃は一人につき銭五文、馬と人で銭一五文とする。

 (15)荷船の運賃は、現在の運賃の二割を引下げる。

 (16)質屋の元質は、金一両につき一ヵ月の利足は銭七二文、銭一〇〇文については銭二文の利息とする。取次質は、金一両につき一ヵ月の利息は銭一〇〇文、銭一〇〇文については銭三文の利息とする。

 このほか竹木・古家・古着・紺屋・古道具の売買についてそれぞれ値下げをちかい、さらに神仏勧化配札・神事祭礼・村祈祷・葬礼仏事・若者・田地相続・奉公人・農休日・耕作・衣類・風俗につき、文政度の取きめどおり取締りを実施するとある。

 このほか水野忠邦の計画した天保の改革は、都市の流入人口を抑えて農村人口の確保をねらった〝人返し令〟や、江戸・大坂十里四方を幕府の直轄地に組入れようとした〝上知令〟などが挙げられるが、いずれも失敗に終った。ことに幕府が改革の一環として、天保十二年に公布した〝株仲間解散令〟は、商品流通を独占した十組問屋の不当な価格のつり上げをおさえ、物価の引下げをねらったものであったが、問屋仲間の外にあった商人の活動がこれによって活発となり、江戸近郊農村の商品生産の発展を刺戟し、農間余業の禁止と農村自給経済の再建という幕府の意図と相反する傾向を強めた。

 このため幕府は水野忠邦失脚後も、経済統制をゆるめることなくしばしば通達を出して経済の統制につとめた。弘化二年(一八四五)と安政二年(一八五五)の農間余業の実態調査や、村の産物・江戸ならびに近隣市場へ出荷の産物、そのほか茶店・旅籠屋などを書上げさせた村差出明細帳を関東取締出役に提出させていたのもこのあらわれである。

 なお越ヶ谷本町内藤家の「記録」によると、安政六年、前年の震風災による災害の復興にともない、職人手間賃の高騰がいちじるしかったが、これに対し、関東取締出役による手間賃統制の通達がだされ、越ヶ谷宿組合では改めて手間賃が協定された。この手間賃は第22表のごとくである。これによると、たとえば大工の手間賃は、一日一人につき銀二匁五分であるが、安政六年度に限り銀五分の増銭と定められている。この協定書には、宿場役人と職人が残らず署名して取締出役に提出されたという。

第22表 安政6年越ヶ谷宿組合職人手間賃
職種 賃銭 安政6年度限り増銭
大工 銀2匁5分 銀5分
左官 〃3 〃5
石工 〃3 〃5
仕事師 銭200文 銭48文
木挽 銀2匁 銀5分
家根葺 〃2 〃5
黒鍬 〃2 〃5
桶屋 〃2 〃5
〃2 〃5
瓦葺 〃5 なし
畳差 〃2匁5分 なし