日光門主

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日光道中を通行する公用旅行者のなかでも、日光東照宮の門跡である日光門主は、大沢福井家文書に「当道中第一の御大切の御役」とあるように、江戸時代にはもっとも重要な通行者であった。日光門主は、天海僧正によって寛永二年(一六二五)十一月に開山された天台宗関東の総本山上野東叡山寛永寺を、承応三年(一六五四)から兼掌したが、輪王寺の宮とも称され代々法親王が在山した。

 このように、野州日光東照宮と江戸上野寛永寺を兼掌したため、日光門主は両者間を定期的に往返した。この定例通行日は一月二十三日に下山通行(日光出発)、四月十二日に登山通行(江戸出発)、五月二十三日に下山通行、九月七日に登山通行、九月二十三日に下山通行、十二月二十六日に登山通行となっており、日光道中を年に合計六度通行した。道中の各宿場では、この通行に際しては宿役人が礼装で送迎にたつなど格別の配慮がはらわれ、その休泊にも、特別な設備のある本陣が用いられた。

 安永三年(一七七四)十月、それまで越ヶ谷宿本陣を勤めてきた越ヶ谷町会田八右衛門が本陣の退役を願い、代りの本陣として大沢町の大松屋福井家を指名した。当時大松屋は脇本陣であり、すでに日光名代をはじめ、参勤交代の諸大名の休泊をつとめていた。なかでも越後新発田の溝口家や、羽州本庄の六郷家、奥州福島の板倉家の定宿となっていた一流の旅館であったが、このとき本陣の推せんをこばみこれを辞退した。道中第一の本陣勤めである日光門主の休泊には、それに相応した湯殿・雪隠・二畳台・清所・御門ならびに家内諸道具を完備しなければ本陣が勤まらないというのが辞退の理由であった。

 越ヶ谷宿ではやむをえず、その後の数年間は大沢町の照光院の一部を改装して仮の本陣に仕立て、日光門主通行の際の小休所にあてていた。その間、越ヶ谷宿では幕府からしばしば本陣の設置を勧告されたが、やっと安永九年十一月にいたり、大松屋が家宅の修復を終え本陣を勤めることになった。本陣願いは関東郡代所御用場掛り野村藤助によって処理され、大松屋は正式に本陣役を襲った。本陣となった大松屋は翌天明元年三月、本陣・問屋・年寄の宿役人連名で、上野東叡山御吟味所宛に御用向仰付けの願書を提出した。これが受理され同年四月十二日、江戸を出発する日光門主の越ヶ谷休、杉戸泊りという通行先触が本陣に到着した。本陣福井家がはじめて日光門主を迎えるのである。

上野東叡山の山門

 日光門主の通行前日、御先荷物とともに東叡山吟味所の役人が出張し、本陣の下見が行なわれて宿札一枚、下宿札一四枚が渡された。このうち、日光門主昼休の宿札は本陣に掲げられ、随行者昼休の下宿札は御供衆それぞれの宿割にしたがって御用旅籠屋一四軒に掲げられた。当日麻裃で礼装した本陣の当主は、慣例にしたがって越ヶ谷宿の入口で日光門主の行列を待った。行列が到着するとかれは御簾番の衆から門主の披露をうけ、そのあとすぐに行列を駈抜けて御先案内を勤めた。このときの本陣の昼食献立は、挽割飯にすまし汁、鯉の濃汁、大猪口中付に香の物であり、ほかに酒と硯蓋一通りを揃えた。下宿一四軒では別に申合せはしなかったが、いずれも一汁一菜に酒肴をつけたという。この昼休に日光門主一行が支払った代金は、本陣に対し門主以下三〇人分で銭一貫六二六文、下宿一四軒に対して六六人分銭三貫四六二文、合計銭五貫九〇文であり、これを一人あたりにすると上が五八文、下が四八文であった。このほか、本陣には新規本陣祝いとして祝儀金二〇〇疋が下賜された。

 しかしこの宿賄い代は低廉なものであったので、問屋場から日光門主休泊のつど補償金が出されることになっていた。このときは下宿一四軒に、酒肴代として一人につき七二文宛の補助があったが、とくに御輿の衆と御手廻り衆には合計酒代一〇〇文と肴代三〇〇文が特別に補助された。一方本陣には三〇人分の酒代として合計銭一貫五〇〇文、それに肴代三〇〇文が補助銭として支給された。このほか問屋場から、炭・草履・琉球表、それに宿賄いの手伝人足が本陣と下宿に差入れられたし、御供衆に与える祝儀銭などが準備されていた。このうち本陣と下宿の手伝人足に関しては、日光道中各宿の申合せによる寛永年間(一六二四~四四)からの慣例であるといわれ、宿場の地借・店借の者が動員されたが、この人足賃は問屋場から支払われた。その動員数は、日光門主の宿泊には昼夜交代で計一六名、昼休が八名、小休が四名であり、下宿に対しても規定に応じてそれぞれ手伝人足が割当てられた。

 また御供衆の祝儀も、日光門主休泊のつど、〝昵懇〟と称して金品を贈る慣例であり、このときは宿割役の宍戸幸次郎に金二朱、御小人衆三人に金一分二朱、御先荷才領衆に金二朱、御清所衆に酒一升、御小人衆に酒一升と玉子一〇個、御手廻り衆と御輿の衆にそれぞれ金一分と酒一升・鰹節五個、御目附衆の御供に銭二〇〇文、御薙刀の衆に銭三〇〇文、御風呂方の衆に銭三〇〇文を贈った。これら問屋場からの支出は、結果的には宿民の負担となるものであり、天明五年(一七八五)の越ヶ谷宿書上げによると、日光門主宿泊のときで銭五〇貫文、昼休で銭四〇貫文、小休で銭三〇貫文の支出であったという。しかも日光門主は定例年六回の通行であったので、宿場の負担は想像以上に重かったとみられる。

 なお日光門主宿泊の際、随行者たちの宿泊する下宿についても充分の配慮が払われたが、天明四年(一七八四)四月、日光門主が越ヶ谷宿に宿泊したときの下宿割りは、御執当一行が脇本陣虎屋次兵衛方に、御内仏一行が同じく脇本陣玉屋彦右衛門方に、御坊官一行が庄内屋藤右衛門方に、諸大夫一行が橘屋権右衛門方に、御側用人一行が蔦屋茂左衛門方に、一の近習衆が桔梗屋徳右衛門方に、二の近習衆が小泉屋孫右衛門方に、医師衆が伊勢屋安五郎方に、儒者衆が大黒屋嘉兵衛方に、中奥の小姓衆が槌屋所左衛門方に、御次番衆が富士屋平四郎方に、御手廻り衆が井筒屋五郎左衛門方に、御輿の衆が武蔵屋茂兵衛方に、差添医師が若松屋次郎右衛門方に、下陣衆が柏屋弥平太方にというように、計一五軒に分宿した。ほかに近習衆の宿所が手狭であったので、臨時の下宿に富吉屋峰松方が申付けられたという。

本陣備付行燈