日光名代

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将軍の日光東照宮参詣の名代には、幕府高家衆が代参し、また日光大猷院廟参詣の名代には大名衆が代参した。例年高家の名代は一月十三日に登山し参詣が終って同月十八日に下山する。大名の名代は同じく一月十三日に登山し、同月二十三日に下山する慣例である。このほか四月の日光宮祭礼にも各名代が参拝のため登山した。

 これら日光名代は、例外を除き日光道を通行したが、これを天明元年(一七八一)四月の例でみると、このときの高家名代は六角越前守である。越前守一行六三名は四月十三日越ヶ谷宿で昼休みをした。このとき本陣で昼食をとったのは越前守以下二四名であり、昼食代の支払いは、合計銭一貫二〇〇文であった。これを一人当りにすると平均銭五〇文である。ほかに茶代として金二朱が本陣に下賜された。日光高家名代の賄いは、問屋場からは本陣だけに炭と琉球表が補助され、酒肴は注文により銘々の勘定払いであった。

 ついで四月十八日、六角越前守が日光参詣を終えての帰路越ヶ谷宿で一泊した。本陣には六角越前守以下二四名、下宿六軒に家老ほか家臣二九名が分宿した。この宿泊代は下宿分を含めて合計銭六貫三〇〇文であり、一人当り平均銭一〇〇文であった。ほかに金一〇〇疋がお茶代として本陣に下賜されたが、問屋場からは炭一俵と琉球表六枚それに手伝人足二人の差入れだけで補助銭はなかった。

 一方このときの日光大名名代は松平紀伊守であり、一行は四月十六日に越ヶ谷宿で昼休みをした。このとき本陣で昼食をとったのは一行のうち二〇名であり、代金は一人当り八五文払いであった。問屋場からは一切の補助がなく、酒肴は注文に応じて銘々払いである。この際松平紀伊守から本陣にお茶代として金二〇〇疋が与えられたので、本陣では筍一本を献上した。また松平家の持参馬三疋は、槌屋所左衛門方で昼飼をとったが、この昼飼料は一疋につき一七二文の払いであり、厩の者一〇名は一膳飯でそのときの相場で支払われた。そのほか御供衆は銘々茶屋で昼飯をとったという。

 同じ昼食でも日光高家名代の一人当り五〇文払いと、日光大名名代の一人当り八五文払いでは大きな差がある。幕府は公定旅籠代を定めていたが、休泊者それぞれの家風や、財政状態によって、まちまちな支払いであったようである。

越ヶ谷宿本陣福井家の庭