日光例幣勅使

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日光例幣勅使は、日光宮祭礼に派遣される天皇の勅使である。日光勅使の制度は、江戸幕府の強い要請により正保三年(一六四六)から毎年実施されるようになったといわれる。勅使の通行路は、京都から中山道を通り、中山道倉賀野から分かれて太田・梁田・栃木・合戦場を経、壬生街道楡木に至るもので、この間を例幣使道と呼んだ。明和元年(一七六四)から道中奉行の管掌下になった表街道であるが、日光参拝の帰路はこの例幣使道を利用せず、日光道中を通って江戸に入るのが通例であった。

 例幣勅使は所領や扶持の少ない公卿であるだけに、財政が苦しい家が多く、交通費の節約をはかるため、道中の宿泊に限って旅籠を使用した。その他は〝木の下弁当〟と称し神社や茶屋で休んで弁当をつかったので、旅籠では昼休みはとらない例である。ただし越ヶ谷宿の昼休みは例外であった。それは、越ヶ谷宿の市神社神主須藤勘太夫が、明和年間(一七六四~七二)京都の吉田家から須藤摂津正の称号を与えられ、堂上方に出入りを許された由緒から、例幣勅使が日光山に参向し江戸へ下山の際は、須藤摂津正の賄いにより、越ヶ谷宿本陣で昼食を差上げる慣例であったからである。

 これを天明元年四月の日光祭礼に派遣された勅使、日野宰相の例でみるとつぎのごとくである。日野宰相は四月十七日、日光山参詣の帰路粕壁宿で一泊した。須藤摂津正は翌日粕壁宿に出向し、昼食を差上げる旨を伝え日野宰相一行を越ヶ谷宿本陣に案内した。一行を本陣に迎えた摂津正は、小頭以上の者に麦飯に鯉の濃汁、それに酒肴を御馳走し、長芋一包を献上した。摂津正の子の主税夫婦からも菓子などが献上された。これに対し、日野宰相から摂津正へ挨拶として色紙と金一〇〇疋、妻に帛紗、主税夫婦に末広とたばこ入、それに染筆物などが下賜された。このほか本陣には宿料として金二〇疋と染筆物二枚が与えられた。

 例幣勅使に関しては、かねて京都所司代から道中宿場に対し勅使接待の勧告触がだされていたが、越ヶ谷宿での饗応は須藤摂津正の賄いであるので、本陣ではこれに関知しなかった。しかし問屋場からは輿の下敷用の琉球表六枚を差入れ、このほか勅使の御供衆に〝眤懇〟として、銭五〇文包とか一〇〇文包を用意したので、およそ三貫五〇〇文程の出費であったという。