文政十三年(一八三〇)七月二十三日、日光門主名代の江戸谷中覚成院方丈が、日光大猷院盆供養を終えて日光からの帰路、俄かに越ヶ谷宿本陣に宿泊を通告してきた。本陣にはこの日、芝増上寺山内から岩槻浄国寺に入院する方丈が先約で宿泊することになっていた。本陣ならびに宿役人一同は、日光門主名代の突然の申入れに対して、その取扱いに苦慮していたが、先に到着した浄国寺一行がそのまま本陣に入った。後から到着した覚成院一行は宿役人の案内で脇本陣代りの稲葉屋次左衛門方に案内されたが、覚成院側はこれを不満とし、再三にわたり本陣を呼立てた。だが本陣は浄国寺方丈の接待に追われて、覚成院の呼立てに応じなかったので、激昂した覚成院は配下の役人を本陣に差向けた。覚成院の役人は本陣の開門を求めたうえ、浄国寺の御朱印と日光門主名代の御朱印とは、その格式からも大きな違いがあり御威光にもかかわるので、本陣を速刻明け渡せと迫った。浄国寺方丈は、本陣を明け渡してすぐに出立してもよいが、御朱印を所持しているので夜分の出立はできないとこれを拒否した。
そこで結局覚成院方では、この始末を後日寺社奉行に訴えるので、そのとき引合として浄国寺も召喚されるであろうと言い残し、夜中越ヶ谷宿を出立した。越ヶ谷宿役人は、翌朝ただちに申開きのため上野山内に出向し、再三にわたって許しを乞うたが聞入れられず、一件は寺社奉行脇坂中務大輔に訴えられた。寺社奉行ではこれを道中奉行曾我豊後守役所に報告したので、越ヶ谷宿問屋は本陣とともに奉行所に喚問された。一件は吟味のうえ、九月二十九日に裁許が申渡された。すなわち、今後日光門主名代の通行には疎略な扱いのないよう、とくに配慮すべしという訓示があり、このときは一同に咎めはなかった。本陣福井氏はこの裁許の趣を、岩槻浄国寺方丈に報告に参上したところ、すでに方丈は寺社奉行から御叱りをうけており、残念そうに嘆かれていたという。当時は身分・格式が重んぜられており、正当な処置でも歪んだ判断で処分されることが多かったようである。