本陣盗難一件

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諸家が、本陣そのほか下宿に宿泊するときは、荷物の搬入や装備などで家中の出入りが頻繁であったうえ、宿場からも勝手向きの手伝人足が出入りしたので終日混雑した。ことに家中のなかでも素姓の知れない雇い足軽や雇い仲間(ちゅうげん)、それに〝通し日雇人足〟などが荷物の搬入にあたり、本陣・下宿に出入りしたので、混雑に紛れ盗みを働く者がいた。なかには家中の侍をよそおって、本陣や問屋場から金銭を欺しとるものもいた。

 諸家も宿役人も混雑のなかなので、多少の被害ではこれを公けにせず、事件の起きた本陣・下宿の負担で内分に済せることが多かった。これを公けにして訴えるとその手続きが厄介なうえ、訴訟費用も掛り、しかも本陣・下宿とも諸家から御用を差留められる心配があったからである。これら盗難事件を、本陣福井家の「御用書留」によってつぎに例示しよう。

 天明四年(一七八四)四月二十六日、松平陸奥守一行が越ヶ谷宿に宿泊した。このとき、仙台藩目付役小平善太夫の下宿、紀伊国屋善右衛門方の裏木戸が盗賊によって破られ、小平善太夫の部屋から金子入鼻紙が盗みとられた。宿場ではこれを支配伊奈摂津守役所に届けたが、内分で済んだようである。

 また、享和年間(一八〇一~四)常州下妻の領主井上遠江守が栗橋宿本陣池田由右衛門方に宿泊したとき、井上遠江守の勘定方の部屋においた胴乱(四角な革製の袋)が紛失し、中に入っていた金六両二分と銭一貫七〇〇文が盗難にあった。周囲の状況からみて、これは外部の者の仕業ではなく、通し日雇人足のうちの一人であるとみられ、本陣はこれを代官役所へ訴えることを願った。しかし井上遠江守方ではこれが公けになると道中奉行に届けなければならないので、面倒に思い内分に済せた。したがってこのときは、井上遠江守方で盗難の損害を負ったようである。

 また粕壁宿では文化四年(一八〇七)九月、日光門主が本陣見川安左衛門方に宿泊のとき、近習方頭取大沢縫殿の夜具と、井上可憐の柳行李が盗まれた。柳行李は古利根川の堤防に捨られてあったが、中に入れてあった小袖の袷と羽織などが盗まれていた。本陣見川氏は郡内縞の夜具を大沢縫殿に貸してその日は間に合せたが、翌日出発のとき、日光門主の目付衆から、盗難一件吟味のうえ、日光山御吟味所迄報告にくるよう申渡された。ただし公儀への届けは内分にせよといわれたが、本陣見川氏は支配野田源五郎役所に〝内届〟をなし、日光山に参向して内済処分の手続きをとった。おそらく本陣が弁償金を支払ったのであろう。そして日光門主から盗難にあった大沢縫殿に金三〇両、井上可憐に金五両の手当金が与えられた。一件がこうして内済になるまでは、本陣見川氏は多分の入用金をかけ難儀したという。

 しかも本陣見川氏は、宝暦年間(一七五一~六四)、関根助右衛門から本陣を引継いで以来、南部内蔵頭や久世大和守宿泊のときにも盗難がおきており、文化四年十二月の日光門主宿泊のときには火災をおこすなど災難が続き、文化六年、ついに本陣を小沢栄蔵方に譲渡している。盗難等の責任は、宿泊する側にもあったが、内分にするためにはその責を多くは、本陣・下宿側が負ってこれを弁償しなければならなかった。