伝馬に従事する宿や助郷の人馬は、原則として隣宿までの区間を往復した。隣宿につくと、隣宿の人馬がこれにかわって荷物や人びとを輸送する。したがって輸送する荷物は道中先々の宿場で荷物の積み下しをしたので無駄な時間がかかったし、その費用も多くかかった。ことに遠隔地の大名が参勤交代で旅行するときは宿駅の整備されていない街道もあって必要な人馬を求められないこともある。そこで参勤のときは、国元から人足を連れていき、帰国のときは人足をまた国元から呼んだりしたが、それも無駄な費用がかかった。
こうしたことを背景に、必要な人足を提供する人足の請負業者が発生した。これを〝通し日雇請負人〟といい、通し日雇人足を道中筋では〝利物師(りものし)〟と唱えた。
旅行する大名・旗本・公家など諸家は、さかんにこれを利用したが、この雇入れは入札によってもっとも低額な業者に請負わせたので、道中筋ではこの人足を〝安物師〟とも唱し、道中でもっとも嫌われた通行者の一つであった。かれらは雇傭主の権威をかさにして、病気や足痛などを理由に宿場の駕籠や人足を出させ、この賃銭を払わないばかりか酒代を強要したりした。もしこれを拒めば宿や助郷の人足を打擲するなど、不法な行為が多かったからである。幕府でも不法行為の多い通し日雇人足の取締りを、しばしば名指しで通告していたが、あまり効果がなかったようである。
越ヶ谷宿の文政四年(一八二一)の書上げ(越谷市史(三)六〇六頁)にも、これら日雇人足の狼籍の実態が記されている。これによると、日雇人足は特定の下宿を定めてここを〝どや付〟と唱え、伴天などの目印を下げた宿に多勢のなかまが集まり夜通し博奕をする。博奕のすえは喧嘩口論となって、障子・唐紙・烟草盆など手あたり次第破損する。もちろんこの破損の弁償をしないばかりか、博奕に負けた者は宿料や酒代も払わずに逃去ってしまう。しかも通し日雇が泊ると、下女の前垂れや手拭・たすきなどの紛失が絶えないので、宿屋の損害は大きい。ことに日光宮関係者の随行には、その権威をかさに〝眤懇〟といって酒代をねだり取るものが多いので、宿・助郷とも非常に迷惑している。これら通し日雇は、主に江戸六組飛脚仲間から調達されたが、日光道を多く通行するのは京橋組三河屋角兵衛、麹町組遠州屋忠兵衛、同じく麹町組鳥羽屋佐右衛門であり、越ヶ谷宿では、この請負人をとくに取締ってほしいと道中取締役人に訴えている。