道中の諸事件

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道中の通し日雇人足の不法行為は以上みてきたとおりであるが、このほか諸家の旅行に随行した足軽・仲間(ちゅうげん)あるいは家士が道中や宿場で事件を起こすことがある。一方宿場の馬士や人足も伝馬の途中で事件を起こすこともある。これらの事件を越ヶ谷宿本陣福井家の記録によってみると、つぎのごとくである。

 享保年間(一七一六~三六)のこと、米沢藩上杉氏が日光道中を参勤の途次、上杉家の足軽の一人が足立郡金右衛門新田地先の路上で、越ヶ谷宿の馬士と口論のすえこれを殺害した。宿場役人の届けで伊奈半左衛門役所から検視の役人が出張して取調べにあたったが、千住宿中屋六右衛門が仲裁人となり、上杉家と交渉のうえ内済とした。おそらく上杉家から弔慰金が出されたと思われるが、くわしいことは不明である。

 宝暦二、三年(一七五二~五三)頃のこと、会津藩松平氏が日光道中を参勤の途中、松平家の足軽の一人が大沢町で酒狂のうえ、抜刀して荻島村の馬士を斬りつけた。手負いの荻島村馬士は町はずれに逃げだし、大沢町飯御免耕地まできたが、堀につまずいて倒れた。これを追った足軽が抜刀のまま馬士に近ずいたが、突然何者かに肩先から胸にかけて斬り下げられその場で即死した。越ヶ谷宿役人は早速一件の始末を会津藩松平家中に届けた。結局会津藩では乗物持参で足軽の死骸を引取り、一件は内分の扱いになった。手負いの荻島村馬士はその後、縫い合せ治療をうけ、一命をとりとめたという。

大沢三丁目付近

 天明七年(一七八七)九月、日光名代酒井雅楽頭が日光参詣の帰路越ヶ谷宿を通行した。このとき酒井氏に随行した通し日雇人足や足軽達が、越ヶ谷宿問屋場に人足を出すよう掛合にきた。問屋場では人足の調達をはかったが、酒井氏家中の役場立会目附桜井市郎次が賃銭の差引勘定を拒んだ。つまり無賃の人足を使役しようとしたのである。このため問屋文之亮がこれを咎め口論となったが、怒った市郎次が腰の十手を振り上げたのを機会に、日雇人らが一せいに問屋場へ乱入し文之亮を打擲した。しかも日雇方元締神田三河町の田口屋友七が問屋場の口入元帳を取上げてしまった。証拠の湮滅をはかったのである。越ヶ谷宿ではこの不法行為の始末を道中奉行所に訴訟した。奉行所では桜井市郎次、田口屋友七、そのほか酒井家の家臣を召喚して取調べを進めたが、取調べの途中幸手宿本陣文左衛門、千住宿本陣市郎兵衛が仲裁に入った。この仲裁人による両者間の調停の結果、酒井家から、傷害をうけた文之亮の療治代金五〇両が支払われることで一件は内済処分になった。

 一方宿場の人足が荷物の継送り中、荷物を抜いたりする不法な行為も数多くみられる。たとえば、天明五年(一七八五)九月、江戸から継送られた日光宮の御神酒三駄のうち、四樽の中味が一貫一〇〇目ほど不足していた。このほか、それぞれの酒樽が量目不足であり、三駄のうち二樽しか用達できなかったので、日光祭礼の御神酒に差支えたという。このときは、道中のいずれの宿場で、抜き取られたものか不明であったが、もしこれがわかったときは相当の処分をうけたであろう。

 享和二年(一八〇二)二月、越ヶ谷宿大沢町の百姓甚八の抱え月雇いの馬士清助が、二本松藩の荷物を輸送中、荷物の中の貫差銭を抜き取って逃亡した。越ヶ谷宿では早速手配して清助の捜索にあたり、清助を道中筋足立郡竹ノ塚で逮捕した。越ヶ谷宿役人は盗んだ金を清助に弁償させ、当日は越ヶ谷宿問屋場前に縛ったまま晒の罰に処した。翌日罰をうけた清助は、千住・栗橋間の宿場稼ぎを禁ぜられ、町はずれから身一つでとき放された。すでに越ヶ谷宿からは、千住・栗橋間の宿場に清助追放の廻状が届けられていたので、清助はこの区間では渡世できなくなったのである。当時は、軽い犯罪人の処断は、公けにされない限り、宿役人の権限でこれが行使されていたようである。

日光街道越ケ谷町(草加市教育委員会提供)

 このほか宿場人足が荷物の輸送中に間違いをおこしやすいのは、書状の紛失や汚損であった。たとえば、天明七年(一七八七)一月、瓦曾根村から送られてきた川々普請御用掛り役人の書状二通を受取った越ヶ谷宿問屋場では、これを宿場人足幸右衛門に渡し粕壁宿へ継送させた。幸右衛門は二通の書状を御状板にはさみ道中を急いだが、途中俄かに気分が悪くなり、度々転倒しながらもようやく粕壁宿にたどりついた。しかし肝腎の二通の書状が紛失していた。報せをうけた越ヶ谷宿問屋は驚いて粕壁宿に急行したが、このときすでに幸右衛門は重態でその場に倒れていた。問屋は幸右衛門を医者に預け、越ヶ谷宿の住民を動員して井堀の中まで書状を探した。だが書状がでなかったのでこの始末を宿役人から代官伊奈半左衛門役所に通報した。報せをうけた役所からも出役が出張し、改めて書状の捜索が続けられたが、ついに書状をみつけだすことができなかった。不始末をした幸右衛門はその三日後に病死した。支配役所では、今回はとくに咎めはないが、今後とも紛失した書状は続けて探すように申渡し、一件はすんだ。

 また、文政元年(一八一八)十月、藤岡陣屋から発送された状箱の中に泥水が入って、なかの書状が濡れていたうえ、状箱に添えられたはずの桐油が、状箱とは別になって後から継ぎ送られてくるという一件がおきた。代官所のきびしい追及によって調査を進めたところ、桐油を添えた封印付の状箱が、一六七文の賃銭と宿継帳面一冊とともに、粕壁宿から越ヶ谷宿問屋場に継ぎ送られてきたのが確認された。その後の調べでこの状箱と桐油を草加宿に継ぎ送ったのは、歩行役次助の抱え人文蔵であることもわかった。文蔵は状箱と桐油を草加宿に送るため、夜中の道を急いだが、途中持病の疝癪がおこり苦痛のため倒れた。だが刻付(到着時間を記した急行便)の状箱であるので無理に急行しようとしたので水溜りに転倒した。このとき持参の提灯がこわれたが、人家のない野中であったのでそのまま暗闇のなかを草加宿にたどりついた。こうしてようやく問屋場に到着したので品物を点検したところ、持参の状箱が濡れておりしかも桐油がない。驚いた文蔵はその場で状箱と賃銭帳を問屋場に預け、引返して桐油を探しだした。しかし苦痛のため草加宿にこれを届けることができず、一たん越ヶ谷宿問屋場に帰ったうえ、代りの者に頼んでこれを継ぎ送ったという。当夜の当番帳付は六兵衛という新参の者で、業務に馴れていないこともあり、宿役人にこれを届けなかったために一件が表面化したことが判明した。

 この一件は宿役人の詫書で御咎めをまぬがれたが、一般に刻付の付された公用の書状の取扱いはとくにきびしかったようである。貞享三年(一六八六)京都所司代土屋相模守が、老中宛の状箱と京菜五荷を刻付を付して送ったが、東海道程ヶ谷宿で取扱いを誤って京菜と状箱が別になり、老中へ到着が遅れたため、程ヶ谷宿の問屋が田畑屋敷を没収され、程ヶ谷宿二十里四方の追放に処せられた例などがある(大沢福井家文書「往還諸御用留」)。