天明飢饉と松平定信

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天明二年(一七八二)と同三年は春先から低温多雨が続き、夏の土用中でも冬の綿入れを用いたほどであったという。このため農作物はすべて冷害に襲われたが、ことに奥羽地方はこれがひどく、今までに例をみない大飢饉となり餓死者は数十万人に達したといわれる。米価もこうした凶作のため異状な高騰をみたが、一部悪徳商人の買占め・売惜しみにより、食糧を絶たれた庶民が、津軽・盛岡・仙台・秋田などで、頻繁に打毀し騒動をおこしていた。奥羽地方の領主・地頭は、この飢饉に対処し、江戸から食糧を国元に送り、少しでも飢饉をやわらげようとはかった。これら食糧の緊急輸送は、主に日光道中を経て奥羽地域に送られたので、幕府でもとくに日光道中宿々に対し、救援食糧の輸送は人命にかかわるものなので、遅滞なく継送るよう関東郡代伊奈半左衛門の名で通達を出していた(越谷市史(四)二四二頁)。

 なかでも奥州白河藩主松平定信は、道中奉行に連絡をとり、伊奈半左衛門の通達で、とくに白河に積送られる食糧の荷は、昼夜の別なく至急継送するよう日光道中・奥州道中の宿々に申渡した。この白河行きの食糧を積んだ駄荷は夥しい数にのぼったが、昼夜の別なく順調に白河に送られたので、白河藩内の領民は飢饉による餓死からまぬがれた。このため白河藩では、天明四年五月、白河にいたる日光・奥州道中各宿々に対し「宿々滞りなく継立たまい、白河表へ遅滞なく相達し過分に存じ候、之により少分ながら金二百疋宛相増され候、猶また以来駄数の多い節は、往来とも滞りなく継立たまうべく候、以上」との感謝の書付を廻し、一宿宛金二〇〇疋の礼金を出した。越ヶ谷宿では同月二十九日、問屋弥惣がこの金を受取っている。

 なお天明年間の凶作は同四年・五年と続き、諸国一統三分の二の減収といわれる全国的な凶作で、米価は日ごとに騰貴し、天明七年には全国各地の都市で貧民による打毀しが起ったが、ついに同年五月には江戸開府以来といわれる江戸の打毀し大騒動が発生している。