武蔵東部の低地域は、江戸時代を通じ、しばしば水害にあっているが、この水害時における交通状況の一端を、同じく本陣福井家文書「往還諸御用留」によって、天明六年(一七八六)の場合をみてみよう。
天明六年七月、奥羽・関東一帯は大風雨に襲われ、各所で大洪水となった。当地域では利根川堤、荒川堤をはじめ、古利根川堤、元荒川堤の各所が決潰し、越谷周辺で床上水深三、四尺、田畑平地で水深七尺の大水となった。各道中のうちでもとくに被害の大きい日光道中では、洪水後の交通は全く杜絶状態であり、この復旧も見通しのたたない程であった。こころみに、洪水にあった七月十六日から同月晦日まで半月間の越ヶ谷宿で扱かった伝馬継立てをみると、御状箱・御用物・触書状の緊急輸送が六四件、通行者の継立てはわずか一〇件のみである。翌八月一日から同晦日まで一ヵ月間の伝馬輸送は、書状を含め人足七二八人、一日平均約二五件である。さらに九月一日から晦日まで一ヵ月間の伝馬輸送は同じく書状を含め人足一二四三人、一日あたり平均約四一件であった。
これを通常の年の輸送量と比較するため、たとえば寛政十二年(一八〇〇)に越ヶ谷宿で扱った公用人馬数をみると、七月が人足二〇七八人、馬一五九〇疋、八月が人足二〇一一人、馬一四七六疋、九月が人足三八七七人、馬一七七一疋であり、一日平均七月・八月が約一二〇〇件、九月が約一八〇〇件である。
したがって天明六年七月の洪水後、その輸送力の復旧が大幅に遅れていたことが知れる。このため幕府は九月五日、日光道中各宿々ならびに助郷村々の水難状況視察のため、評定所役人などによって構成された視察団を日光道筋に派遣した。この視察団による道中復興施策の結論は、同年十二月、道中奉行から九項目にわたる申渡しとなって通達された。この内容の主なるものは、人馬賃銭の割増し、宿組合の結成と取締役の任命、宿・助郷の誓紙の提出である。
人馬賃銭の割増しは、さきに凶作に苦しむ宿・助郷の助成のため、天明四年から向う七ヵ年間の二割増賃銭が認められていたが、さらに五分の増銭がこれに加えられた。この五分増賃銭は、宿場助成のための刎銭として月々代官所あるいは領主役所に納入され、利倍貸附金に積立てられる条件である。この伝馬改正賃銭の高札は、翌天明七年一月十二日、伊奈半左衛門役所から宿々に交付され高札場に掲げられた。越ヶ谷宿ではこの利倍貸附金積立て通達にもとずき、五分の刎銭を伊奈半左衛門役所に納入した。二月の積立銭は銭四貫四四九文であり、三月分が銭五貫八五六文、四月分が銭八貫六文、五月分が銭一一貫九七六文である。この納入額からみても、次第に道中の復旧が進み、交通状況が好転したことが知れる。
もちろん道中の復興は、道路の復旧や橋梁などの補修にあるが、交通機関としての人馬の整備がもっとも重要な要素であった。つまり、水難困窮によって伝馬供給の余力を失なった宿や助郷をはやく復興しなければ、必要な人馬を集めることができなかったのである。伝馬賃銭の割増しや、助郷村に対する馬飼料の貸与も、まず宿・助郷の復興をねらったもので、伝馬交通の復旧を前提とした施策であった。
また宿組合の結成と、組合取締役の任命は、各伝馬宿間の連絡をたもち、伝馬交通の円滑な運営をはかる措置であったが、交通業務の責任を組合に負わせ、伝馬の義務を一層強化させようとしたものである。宿の組合せは隣宿順に五宿か六宿を一組合とし、各組合ごとに一名の取締役を置いた。日光道中では、千住・草加・越ヶ谷・粕壁・杉戸の五ヵ宿が一組合を構成し、取締役は千住宿本陣市郎兵衛が任ぜられた。また幸手・栗橋中田・古河・野木・間々田の五ヵ宿組合が幸手宿問屋文左衛門、小山・新田・小金井・石橋・雀宮の五ヵ宿組合が小山宿問屋太兵衛、宇都宮・徳次郎・大沢・今市・鉢石の五ヵ宿組合が宇都宮宿問屋五郎右衛門、奥州道中では白沢・氏家・喜連川・佐久山・太田原の五ヵ宿組合が喜連川宿問屋郡蔵、鍋掛・越堀・芦野・白坂・白川の五ヵ宿組合が白坂宿問屋平次右衛門、日光御成道では、岩淵・川口・鳩谷・大門・岩槻の五ヵ宿組合が岩槻宿問屋平兵衛というように、それぞれの組合と取締役が定められた。
組合の結成と取締役の設置は、このとき日光・奥州道中ばかりでなく、東海道や中山道にも設けられており、取締役の役料は、東海道が一年に金五両、その他の道中が金三両と定められている。この役料は人馬賃銭割増し刎銭のなかから充当することにされた。こうした組合取締役制度の機能や、実際の効果はつまびらかではないが、幕府の通達にも組合取締役制度は当分のことであり、取締役が死亡したときは、その跡役は任命しないとあるので、この制度は長く続けられたものではなかったろう。
さらに、宿・助郷の誓紙の提出は、越谷地域では天明七年十一月に徴されたが、これがはじめてのことではない。すでに万治元年(一六五八)十二月にも誓紙を徴せられていた。誓紙は宿の問屋・年寄・帳付など宿の伝馬担当者によるものと、助郷村の名主・年寄など助郷担当者によるものとでは、その起請文前書の条文が異なっている。すなわち宿側の誓紙には、通行人に対して無理をいわない。助郷の馬に付けにくい荷物を付けさせ、付けよい荷物を宿の馬に付けることはしない。用もない人馬を朝から呼寄せて日暮れまで留めておくことはしない。助郷の者から金子を預かり伝馬を請負ったりしない、とある。また助郷側の誓紙は、越ヶ谷宿から通知のあり次第馬を差出す。越ヶ谷宿の者を頼み、金子を出して伝馬を請負わすことはしない。往来の頻繁なときに馬を隠したりしない、というものである。
この誓紙の提出は、つまるところ幕府の伝馬制度に忠誠を誓わせたものであり、宿・助郷の積極的な伝馬協力を強要するものであった。なおこの誓紙はその後天保七年(一八三六)五月にも徴されている。
このように、幕府は水難による伝馬交通の麻痺状態を解消するため、一連の措置をこころみてその復旧に努めたが、天明二年以来の連続した凶作や災害で宿・助郷は極度に疲弊しており、容易には立直れない状態にあった。このため幕府は宿・助郷の救済を重くみて、拝借金の貸出しや御手伝いによる堤防普請などを実施した。越ヶ谷宿では天明六年から同七年にかけ、水害にあった本陣・問屋場、ならびに流家・潰家そのほか宿の人馬役家に対し、合計六四両二分、助郷村々には馬飼料として合計二三六両と永一四〇文の拝借金を手当てした。このほか大名の御手伝いによる綾瀬川・元荒川などの諸普請が行なわれ、村々の窮民はこれら普請の日雇い稼ぎで飢をしのいだという。
またこのときは、御朱印・御証文の無賃伝馬もとくに御定賃銭によって通行することが指示されている。しかし助郷村では、村の災害復興に精一杯の状態で助郷の余力がなく、誓紙とはうらはらな金銭代納による伝馬勤替えを道中奉行に訴願したが、これも許されていた。