旅行者の休泊をつとめる旅宿は、本陣・脇本陣を除いて、近世では旅籠屋(はたごや)と呼んだ。このうち公用の旅びとを休泊させる旅籠は本陣の下宿も勤めたので、本陣付の御用旅籠と称された。越ヶ谷宿には、はじめ越ヶ谷町本陣会田家付の御用旅籠が脇本陣を含め十八軒指定されていた。
これら旅籠屋は、格式と誇りを持った地付百姓によって構成されていたと思われるが、のちには単なる稼業となり、多くの地借層が旅籠屋経営に参加するようになるとともに、御用宿も順番制となった。こころみに文政元年(一八一八)の大沢町旅籠屋身分構成を第23表でみると、四〇軒のうち二六軒が地借層で占められている。
本陣 | 権右衛門 | 百姓 | 次助 | 百姓 | 所左衛門 |
脇本陣 | 伊佐衛門 | 百姓 | 利八郎 | 百姓 | 茂兵衛 |
脇本陣 | 彦右衛門 | 百姓 | 次左衛門 | 百姓 | 安五郎 |
年寄 | 弥平太 | 百姓 | 嘉右衛門 | 百姓 | 甚兵衛 |
百姓 | 伝吉 | 百姓 | 弥兵衛 | 百姓 | 長兵衛 |
百姓 | 清吉 | 百姓 | 太助 | 百姓 | 政右衛門 |
百姓 | 源兵衛 | 百姓 | 伝兵衛 | 百姓 | 喜右衛門 |
伊右衛門 | 地借 | 新八 | 照光院 | 地借 | 佐七 |
清吉 | 地借 | 嘉助 | 弥兵衛 | 地借 | 伊兵衛 |
伊右衛門 | 地借 | 甚八 | 弥五左衛門 | 地借 | 直次郎 |
伊左衛門 | 地借 | 文五郎 | 弥五左衛門 | 地借 | 繁八 |
利八郎 | 地借 | 党右衛門 | 太郎兵衛 | 地借 | 又左衛門 |
利八郎 | 地借 | 利七 | 太郎兵衛 | 地借 | 惣四郎 |
太郎兵衛 | 地借 | 佐次右衛門 | 太郎兵衛 | 地借 | 嘉七 |
喜左衛門 | 地借 | 伊兵衛 | 太郎兵衛 | 地借 | 喜三郎 |
喜左衛門 | 地借 | 此吉 | 立権右衛門 | 地借 | 新兵衛 |
太郎兵衛 | 地借 | 次郎右衛門 | 松権右衛門 | 地借 | 重助 |
彦右衛門 | 地借 | 次郎兵衛 | 喜左衛門 | 地借 | 権兵衛 |
政右衛門 | 地借 | 長兵衛 | 喜左衛門 | 地借 | 嘉右衛門 |
照光院 | 地借 | 太右衛門 | 長兵衛 | 地借 | 重左衛門 |
したがってこの頃になると、旅籠屋の交替も頻繁におこなわれるようになった。たとえば文化十三年(一八一六)の大沢町大火後、文政元年までの二年間に、大沢町四五軒の旅籠屋のうち、一四軒が交替している。このなかには、再建資金の調達ができなくて旅籠屋株を譲り渡した者や、商売替えをした者、あるいは在所に引越した者もあるが、稼業に見切りをつけて旅籠屋を廃業した者が多い。このときは災害による旅籠屋の交替が大きかったと思われるが、旅籠屋交替の一つの要因は、強制的な御用宿の割当てにもあった。御用旅籠を勤めたときは、宿場から補助銭が与えられたがその代償を補う額ではなかった。しかも低廉な公定旅籠銭で休泊する公用通行者が年ごとに増大したため、御用旅籠の経営はけっして楽ではなかったようである。このためいずれの旅籠も御用宿を忌避する傾向にあったが、とくに文化十三年の大沢町大火後、この御用宿割当てをめぐって越ヶ谷宿の休泊業務は混乱をみせた。