大沢町は文化十三年三月七日、日光道往還通り、約二〇〇軒におよぶ大火に遭遇した。火災をまぬがれた大沢町の休泊施設は、わずかに旅籠屋三軒、茶屋三軒であり、茶屋と旅籠のほとんどが大沢町に集中していた越ヶ谷宿の休泊機能は、潰滅的な打撃をこうむった。伝馬の諸業務は越ヶ谷町の問屋場で処理できたが、休泊御用は大沢町に旅籠屋が集中していたため粕壁宿と草加宿に繰替えを願うよりほかなかった。
しかし困窮時の災害であり、しかも幕府の拝借金交付がおくれたため、旅籠屋の再建は進まない。なかには再建資金の調達不能から焼跡のままこれを放置していたり、旅籠屋株を他人に譲渡して在方に転居したり、あるいは店構えを改めて商売替えする者もあって、宿泊施設の復旧はことに遅れた。それでも再建拝借金の交付があった同年の秋頃から家作にとりかかる者もあらわれ、同年十月頃には少しづつ施設も竣工し、順番に御用宿を割当ててその場を間に合せることができた。
このうち旅籠屋所左衛門は、同年六月、早くも家作を完成させると旅籠屋稼業を再開したが、一般旅びとの止宿稼ぎをもっぱらにして御用宿を勤めなかった。すなわち宿役人が御用宿の割当てを通告しても、只今旅びとの逗留客で満員であるといい、あるいは家内に病人がいて差支えるなどと申したて、これを拒み続けた。本陣をはじめ宿役人は、宿場の統制上これを黙止できず、翌文化十四年六月、所左衛門の我儘な所業をとがめ、支配大貫次右衛門役所に訴えた。このときは所左衛門が御用宿順番勤めを承諾し、従来の勤め不足分を補なう条件で詑書を入れたので訴訟を取り下げ内済になった。
ところが所左衛門はこの示談条項を履行せず、その後も御用宿を拒み続けたので宿役人との間に紛争がたえなかった。これをみて他の旅籠屋にも所左衛門に同調する者があらわれ、翌文政元年一月には、御用宿勤めを拒否する旅籠が続出し、宿役人に抵抗を示す旅籠屋一同の不穏な動向が表面化した。宿役人に対するこの抵抗は、幕府の宿場政策に対する抵抗でもあり、宿役人の立場は苦窮に追いこまれた。
ことに当年の三月からは、日光祭礼御用をはじめ、日光宮諸堂社修復見分御用、蝦夷地役人の交代通行等が重なり、御用通行者の頻繁な休泊が予想されたが、これら通行者の支障ない休泊は、宿場にとって重大な責務である。宿役人は旅籠屋一同の動向を憂慮し、つとめて説得にあたったが果せず、ついにこれを支配役所に訴えた。支配役所では早速出役を大沢町に出張させ、旅籠屋一同から御用宿精勤の請書を徴した。そのうえ旅籠屋の規模に応じ、大・中・小の格付けをして御用宿割当ての基準を設けた。このときの大沢町旅籠屋の格付けは、大宿の分が、権右衛門・伊左衛門・彦右衛門・治左衛門・七郎兵衛・太右衛門・佐七・所左衛門・橘権右衛門・清吉・嘉助・源兵衛・喜三郎・新兵衛・安五郎・甚兵衛・弥平太・喜右衛門・次郎右衛門・直次郎・惣四郎・長兵衛の二四軒、中宿の分が、伝吉・甚八・文五郎・覚右衛門・利八郎・佐次右衛門・此吉・次郎兵衛・嘉右衛門・茂左衛門・伝兵衛・次助・伊兵衛・繁八・又左衛門・茂兵衛・嘉右衛門・政右衛門・重助の一九軒、小宿の分が新八・利七・伊兵衛・中長兵衛・嘉七・重左衛門・権兵衛の七軒であり、計四八軒の大沢町旅籠屋が大・中・小に格付けされた。
こうして代官所出役の大沢町出張によって御用宿勤めの精勤が訓告され、格付による御用宿の割当てが定められたが、所左衛門はその後も御用宿勤めの不足分を埋めないのみか、同年四月の休泊繁忙のとき再三にわたり御用宿の割当てを拒み休泊御用に混乱を招いた。宿役人は他の旅籠屋がまた所左衛門に同調して御用宿勤めに抵抗することを恐れ、同年六月、支配大貫次右衛門役所に三度目の訴訟をおこした。支配役所では所左衛門を糺明して牢に入れてもよいが、宿場内の問題であるのでお互いに理解しあい、なんとか内済にすませることはできないかと宿役人を宥めた。両者の間には多分に感情的な要素が介在していたようである。結局宿役人は、科人を出すことが本意でないとする支配役所の勧告により、示談による内済で訴訟を取り下げた。この文化十三年の大沢町大火から、長い期間にわたって執ように続けられた所左衛門の抵抗は、御用宿の矛盾を表面に押出した闘争として、大沢町を大きくゆるがした一件であった。