食売旅籠

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旅客に特殊な接待をした旅籠の女中を〝食売女〟あるいは〝飯盛女〟とよび、この女を置いていた旅籠を〝食売旅籠〟または〝飯盛旅籠〟ともよんで、一般の旅籠屋と区別された。

 越ヶ谷宿の大沢町に食売旅籠屋が設けられた年代はつまびらかでないが、「大沢町古馬筥」によると藤屋伊兵衛がはじめであり、藤屋の過去帳に食売女を抱えた年代が、寛文二年(一六六二)と記されていたという。ついで貞享年間(一六八四~八七)、つた屋茂右衛門などが食売女を抱えはじめ、元禄十年(一六九七)の大沢町人別帳によると、六兵衛・庄兵衛・三郎右衛門・八左衛門・次郎兵衛・九兵衛・長左衛門・七郎右衛門・平三郎・勘兵衛の一〇名が食売旅籠を営んでいたとある。また享保十二年(一七二七)の同じく大沢町の人別帳には、小松屋久兵衛・えび屋長七・小藤屋次郎兵衛・桔梗屋弥惣兵衛・升屋喜左衛門・木瓜屋平兵衛・岩槻屋平兵衛・かたばみ屋孫助・松屋権右衛門が食売旅籠として記されていたとある。その後、文化・文政年間(一八〇四~三〇)には、二二軒の食売旅籠が、主に大沢町の下組に集中して営業が続けられていた。

 これら食売旅籠は特別な営業であったので、一般の旅籠屋が納める町税とは別に、食売旅籠としての特殊な町税を納入することになっていた。これを享保五年(一七二〇)の大沢町議定でみると、当時一一軒の食売旅籠が一軒あたり金三分二朱を〝町銭〟と名づけて年々町入用に納めることになっていた。その後宝暦年間(一七五一~六四)には、一日一軒あたり銭二四文と改められたが、安永六年(一七七七)には、一軒あたり一ヵ月銭四〇〇文に定められた。このときの議定の調印者は、下妻屋権右衛門・いせ屋太兵衛・肴屋半助・俵屋喜右衛門・つた屋茂左衛門・藤屋平四郎・吉野屋孫右衛門・そば屋長十郎・茗荷屋政右衛門の名がみえ、店頭として柏屋安左衛門が記されていた。店頭とは仲間内の出入公事その他の世話役を勤める役であったという。

 さらにこの一軒あたりの町税基準は文化年間に人頭割に改められ、食売女一人につき幾らと定められたが、これを文政十年(一八二七)の例でみると、二二軒の大沢町食売旅籠が、一軒あたり一ヵ年に銭一〇五貫五〇〇文を町銭として納めている。因みに隣宿粕壁宿の食売旅籠では、天保六年(一八三五)の「宿賄諸入用勘定帳」によると、当時金五〇両を町銭として粕壁宿に納めている。また大沢町荒井家文書「惣旅籠屋連印帳」によると、大沢町の食売旅籠は明治二年(一八六九)には、食売女一人当り一日銭一六文と定められていた。当時大沢町の食売旅籠は一八軒であり、食売女の数は一〇四人であったので、この町銭は一日銭一貫六六四文、一年に銭六〇〇貫文である。このほか町の臨時入用費の割当ても、食売旅籠がもっとも多く負担していたし、ことに関東取締出役の休泊賄い入用は、すべて食売旅籠が負担することになっていた。このため食売旅籠は宿場財政を支える大きな財源の一つにもなっていたのである。

 文政八年(一八二五)五月、道中奉行石川主水正が関東地域の道中各宿場に対し、食売旅籠屋一斉取締りのきびしい通達をだしたとき、代官伊奈半左衛門は石川主水正に取締り緩和の上申書をだした。これによると、御用旅行で休泊する公用通行者は低廉な御定旅籠銭で休泊するので旅籠屋は存続できない。このため御用宿の不足銭や臨時の宿場入用金を食売旅籠が補なっている現状なので、食売旅籠を厳重に取締ると宿場が潰れてしまう。宿場の廃失は御用通行に差支えることになるので、旅籠屋に今まで通り二名宛の食売女を置くことを認めてほしいと上申し、これが許されている。この伊奈半左衛門の上申は、宿場財政に占める食売旅籠の位置を端的に示したものといえよう。なお、伊奈半左衛門が、今まで通り、旅籠屋一軒に二名宛の食売女を置くことを上申した根拠は、宝暦年間(一七五一~六四)、関東郡代伊奈半左衛門忠宥が、当時の道中奉行安藤弾正少弼に伺いを立て、正式にこれが許されていた事情による。

 大沢町の食売旅籠は、古くは一軒に一人の食売女を置いていたが、享保年間から一軒に二人の食売女が抱えられるようになったという。これら食売女は遊女と紛らわしい所業をさせられていたので、幕府では万治三年(一六六〇)、道中宿場の遊女を禁止した〝箇条書〟を発したが、それ以来しばしば食売女の禁止令を通達してこれを取締ってきた。ことに旅籠屋の飯炊き女が、華美な服装をしていると遊女まがいの所業にでる恐れがあるとして、下女らの衣料を麻や木綿類に規制したり、その人数を制限したりした。それでも江戸の出口の四宿(千住・板橋・内藤新宿・品川)をはじめ、道中各宿の食売女は増加の一途をたどり、東海道品川宿では、明和元年(一七六四)に食売女の数が五〇〇人と制限されていたのに、天保十五年(一八四四)の調べでは一三四八人に達していたといわれる。こうした傾向に対し、幕府は食売女を過人数抱えた旅籠をきびしく咎め、各宿の食売旅籠を名差しに指摘しては、しばしば代官等にその取締りを達していた。大沢町でもこの例にもれず、度々手入れをうけた。

 たとえば、寛政二年(一七九〇)十二月、道中奉行根岸肥前守の下知により、過人数の食売女を置いたそばや長十郎、むさしや茂兵衛、かぎや又左衛門の三名が逮捕され、所払いの刑に処せられている。この所払いをうけた食売旅籠は土地・財産を没収され、食売女はすべて親元に引渡されている。

 ついで文政八年五月、道中奉行石川主水正が、食売旅籠取締り通達のなかで、日光道中越ヶ谷宿のうち大沢町の食売旅籠二二軒が、銘々食売女を過人数抱え、夜になると表見世先にならび、あるいは奥座敷で音曲を催したりしている。このうち弥兵衛・政右衛門・伝吉・弥平太・伊勢屋という者がとくに不埒であるとして、代官伊奈半左衛門に取締り方を命じた。これに対し伊奈半左衛門が、宿々の助成のため惣旅籠屋に二名宛の食売女を置くことを上申して許されたのは先述のとおりである。このときに食売女を二名宛置くことが認められたのは、越ヶ谷周辺の道中宿場では、大沢町と粕壁宿である。草加宿では一八軒の食売旅籠屋のほか三軒の旅籠屋が文政九年十一月に食売女を置くことを願ったが許されず、翌十年二月に食売旅籠の引き払いを命ぜられている。

 二人宛の食売女を許された大沢町では、文政十年二月、新たに旅籠屋議定を結んだ。それは、

 (1)旅籠屋一軒につき食売女を二名以上置かない。

 (2)食売女には華麗なる服装や飾り物をつけさせない。

 (3)食売女を抱えたとき、あるいは暇を出したときは、そのつど役所に届ける。

 (4)食売女を抱えられない旅籠屋には、お互いに食売女を融通しあう。

 (5)大沢町旅籠屋五八軒のうちから、御用宿の触当てや取締りにあたる世話役を五人選び、御用宿の差支えがないようとりはからう。世話役には役料を与える。

 (6)二二軒の食売旅籠が、年々銭一〇五貫五〇〇文を町銭に納めていたが、これからは総旅籠屋五八軒の割合出金に改める。

 (7)新規の旅籠屋を制限する。

 というとりきめであった。これによると、食売女二人までの抱えを許すという奉行所の内示に対し、惣旅籠屋五八軒が一軒あたり二名の食売女を雇えるという理解であったようである。この理解にもとづき、食売女を置かない平旅籠屋にも食売女を融通するという条項とともに、惣旅籠屋がすべて食売旅籠であることを前提にして、いままで食売旅籠が負担した町銭を惣旅籠屋が割合出金をするという条項が設けられた。これは過人数の食売女雇入れの口実を合理化しようとはかった議定であったろう。

 事実大沢町の食売旅籠は、過人数の食売女を他の旅籠屋の名儀にして雇っていたり、その他の方法で置いていたが、この不正が人別帳の調査によって発覚し、道中奉行所の手入れとなった。一件は吟味のうえ、文政十二年八月に裁許の申渡しがあった。この裁許の請書によると、人別帳の不正書入れをおこなった旅籠屋三五人が過料銭五貫文の罰、違反行為を黙認していた問屋・名主ならびに年寄二人が過料銭一〇貫文の罰、その他の年寄一同は同五貫文の罰という罰金刑であった。

 ついで天保十二年(一八四一)九月にも、道中奉行佐橋長門守の下知により、大沢町に出張した関東取締出役によって食売旅籠が手入れをうけた。このときは柏屋伝四郎・下妻屋弥七・庄内屋茂助・竹屋久左衛門・中屋伊八の五名が、食売女過人数抱えの罪により逮捕された。このように食売旅籠は幕府の度重なる取締りをうけてきびしく規制されたが、宿場の存続のためにも幕府はこれを徹底的に取締って消滅させることはできなかった。