食売女は飯盛女ともよばれ、道中宿場の旅籠屋に抱えられた女で、主に旅びとを相手として遊興のための接待をした。その多くは年季奉公の形式で雇われ、あるいは養女という形式で抱えられたが、いずれも金で買われていく貧困な家の妻か娘であった。この出身地は主に農村であったが、「大沢町古馬筥」によると、大沢町の食売女は享保年間まではそのほとんどが江戸の女であったという。その名前も〝さん〟とか〝りん〟といった同名の者が多くて紛らわしかったので、〝こもん〟〝こまつ〟といった源氏名がつけられるようになったとある。その後大沢町の食売女は越後出身者によって占められたというが、これには専門の人買い業者がいて、もっぱら越後から女性を集めていたらしい。たとえば大沢町福井家史料によると、天保五年(一八三四)三月、大沢町店借の宗助という者が、越後から五人の食売奉公人をともなって帰ったと記されたものもある。
また、旅びと達が食売女と遊ぶいわゆる玉代は、同じく「大沢町古馬筥」によると、大沢町では古い年代には、一人につき銭二〇〇文であったが、中古には銭三〇〇文になり、天保年間には銭四、五百文であったという。さらに明治の初年には、大沢町荒井家文書明治二年(一八六九)の「惣旅籠屋連印帳」によると、それまでは食売女一人の玉代は金一朱であったが、金二朱に改めるとあるので、当時は金二朱位が相場であったろう。ともかく、これら食売女は、旅びと達の接待が主であったが、西方村石塚家文書によると、妻を失なった百姓が、身の廻りの世話をさせるため、彼女らを年季をきめて雇うこともあり、なかにはそのまま後妻に入ることもあった。このほか年季をきめて妾奉公に雇われる者もいたし、借金を返済してもらい妻として身請けされる者もあった。だがこうした例はきわめてまれで、その多くは借りた身代金の利金が嵩み、生涯苦界から脱けでることができない女性が多かったようである。
つぎに大沢福井家文書「御用留」によって、食売女にまつわる諸事件のうち主なものを挙げてみよう。