文政元年(一八一八)、葛飾郡吉川村喜八方で、神田山本町住の元碩という医師が殺害され、ほか二名の者が深傷を負うという事件が発生した。喜八方に乱入して狼藉を働いたのは、越ヶ谷宿大沢町の食売旅籠屋長八、ならびに長八方同居人無宿の勘蔵、埼玉郡新方領増森村の八五郎及び善四郎、八条領西方村の芳蔵、葛飾郡二郷半領平沼村の繁蔵及び勇蔵、このほか四、五名の者である。これら下手人はいずれも其の場から逃亡して行方が知れなかったので、奉行所では吟味のうえ犯人不在のまま同年八月、裁許の申渡しをおこなった。
この裁許の請書によると、大沢町食売旅籠屋長八は、かねてから草加宿の食売奉公人〝なお〟と馴染の仲であり、なおに執心してこれを妻にしようとした。しかし身請の金に差支えたばかりでなく、遇いにゆく金にも困り、しばらくはなおに遇うこともできなかった。ところがその間になおは吉川村の喜八に身請されて喜八の妻になってしまった。驚いた長八は、身請金を弁済するので、なおを譲ってもらいたいと喜八に掛合ったが一も二もなくこれをことわられた。長八は喜八の妻になったなおの本心をたしかめると称し、無宿の勘蔵や増森村の八五郎を頼んでなおの誘いだしをはかったがこれも失敗した。そこで一同とともに喜八方に踏みこみ、なおを強引に連れだそうとした。このとき喜八方に居合せた元碩ほか二人の者と長脇差で斬合いとなり、元碩が殺害され二人の者が傷を負うという始末にいたったという。
この一件の首謀者長八は、本人不在のまま中追放の処分をうけ、家財は没収となった。代官所ではこの処分にもとずき、長八の家財道具類を入札に付し、金一両一分で落札者に払い下げている。このほか、吉川村喜八ならびになおは御構いなし(無罪)、逃亡中である長八の加勢人は不問に処すとあるので、おそらくこの一件は無頼どうしの刃傷沙汰として取扱われたものであろう。