大沢町まん一件

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同じく文政元年のこと、大沢町食売旅籠屋弥兵衛方の食売奉公人〝まん〟が、弥兵衛方から欠落する一件があった。まんはかねて馴染であった大吉村の百姓斉次郎のもとへ逃げたが、斉次郎は弥兵衛の追跡を恐れ、まんを知人である弥十郎村百姓忠右衛門方にかくまった。ところがさきに吉川村で刃傷事件をおこして追放処分をうけた長八が、まんと斉次郎が忠右衛門方にかくれていることを探り、これを弥兵衛に知らせた。弥兵衛はまんを連れ戻すために、数名の者を引連れ、長八の案内で忠右衛門方を襲った。忠右衛門は留守であったが、弥兵衛はまんらを威嚇するために脇差を抜いて振廻した。このとき、まんをかばった忠右衛門の妻〝みよ〟が、刀傷を負ってたおれた。すでに斉次郎は弥兵衛の暴行を恐れていち早く逃亡した後である。長八もお訪ね者の身であり表沙汰になっては災いが及ぶとみてその場から逃亡した。まんはこうして弥兵衛に捕えられ大沢町に連れ戻された。

 自宅に戻った忠右衛門はみよに対する弥兵衛の刃傷に怒り、これを代官吉岡次郎右衛門役所に訴えた。表沙汰になることを恐れた関係者は、調停人を仲に立て、弥兵衛方から金一〇両、斉次郎方から金五両、合計金一五両を出金し、みよの療治代にあてることで示談にすまそうとした。しかしこの内済の趣意を代官役所に届けたところ、すでに代官所では追放処分の長八がその場に居合せていたことを調査しており、内済を棄却し一件を勘定奉行土屋紀伊守役所に起訴した。

 一件は奉行所で吟味され、同年十月裁許の申渡しがあった。これによると、弥兵衛は、追放処分の長八が弥兵衛方に立廻ったのを届けず、しかもまんを連れ戻すためにみよに傷を負わせたのは不埒であるとして手鎖の刑、斉次郎は、弥兵衛が忠右衛門方に踏みこんだとき、いち早くその場を逃げさり、みよが傷をうける結果を招いたのは不埒であるとして同じく手鎖の刑、まんを連れ戻すために同行した四人の者は、弥兵衛の乱暴を制止しようとせず、これを傍観していたのは不埒であるとして急度御叱り、まんは、年季奉公中斉次郎のもとに欠落し、当事件をひき起したことは不埒であるとして同じく急度御叱り、みよと忠右衛門は御構いなしという判決であった。欠落に失敗して連れ戻されたまんのその後の消息は不明であるが悲しく辛いその後の日々であったことは想像できよう。

大吉の農道