宿場助成策

886~888 / 1301ページ

徳川幕府は、中央集権的支配機構を維持するうえに交通政策を重視し、宿駅制度の整備につとめた。このため道中宿駅の保護助成に力を注(そそ)いだが、この助成策には宿場の困窮に際しての救済として、人馬賃銭の割増しや旅籠賃の割増しなどの措置を講ずることもあった。また継飛脚給米・問屋給米の支給、さらに囲人馬・助郷なども宿場助成策として挙げることができる。このうち継飛脚救米は寛永十年(一六三三)から、問屋給米は寛文五年(一六六五)から各道中宿駅に年々下付されたといわれ、東海道品川宿では、継飛脚給米が米二六石一斗八升宛、問屋給米が米七石宛毎年下付されている(品川区史(上)七八一頁)。しかし越ヶ谷宿では両者ともその数量はつまびらかでない。また囲人馬は定められた提供人馬数のうちから一定数の人馬を除くことを許されたものであり、助郷は宿駅人馬の補助として、近郷村々から人馬を徴用したもので、ともに宿駅の保護政策であった。

 このほか特別の大通行や災害などによる宿駅の疲幣には、しばしば救助のための金穀を下付したり、あるいはこれを貸付けたりして宿駅の助成をはかった。越ヶ谷宿では、「大沢町古馬筥」などによってみると、寛永十三年(一六三六)、三代将軍家光の日光社参大通行に米一五〇俵、慶安二年(一六四九)の東照宮三三回忌法会の大通行に同じく米一五〇俵が下付されており、寛永十九年の飢饉の救済として、翌二十年に金一八〇両が下付されたという。その後天明六年の日光道中各宿駅にあてた伝馬交通復旧督励の幕府通達のなかに、万治・延宝・元禄・宝永の年度に、それぞれの宿駅に助成金を、助郷村々には馬飼料を下付したとあるが、これら助成金の越ヶ谷宿に下付された額はつまびらかでない。

 中山道蕨宿の例では、万治四年(一六六一)に馬飼料として金二六四両の拝借金をうけており、延宝二年(一六七四)は、宿々困窮により中山道七九ヵ宿に合計銭二万七六五〇貫文、日光・奥州道中四四ヵ宿に合計銭一万四三五〇貫文の拝借金が下付されていたという(蕨市の歴史(二)四一二頁)。また東海道品川宿の例では、元禄十五年(一七〇二)役馬飼料として金二二〇両、宝永元年(一七〇四)に御救拝借として金二〇〇両と銭八〇〇貫文が下付されているので(品川区史(上)八〇一頁)、日光道中各宿駅にも、このとき拝借手当が行なわれたものと考えられる。このほか大沢福井家文書によって、日光道中では、安永二年(一七七三)に、本陣修復手当を中心に、各宿駅に金七〇両宛の拝借金が下付されていたことが知れる。