享和二年(一八〇二)六月の末、関東一円はまたまた大洪水に見舞われた。とくに利根川・権現堂川・古利根川の各所の堤防が決潰し、栗橋以南の日光道は、このときも麻痺状態になった。さらに洪水の被災地住民はその日の食糧にも困り、死活の境に彷徨した。幕府はこのため急遽宿と助郷村を対象に、現米による夫食手当を給付した。
越ヶ谷宿では、七月十二日、瓦曾根河岸に着船した御用船から、米七石三斗七升五合の割当をうけ、水害にあった元荒川以西の大沢町をはじめ、助郷の新方領一〇ヵ村の困窮者に配給した。このときの配給量と配給をうけた人数は、大沢町が二一七人、一日一人あたり米二合五勺で、五日分、総量二石七斗一升二合五勺である。大房村が同じく三四人で四斗二升五合、大林村が一九人で二斗三升七合五勺、大里村が三四人で四斗二升五合、小林村が七四人で九斗二升五合、下間久里村が三五人で四斗三升七合五勺、上間久里村が三四人で四斗二升五合、川崎村が三五人で四斗三升七合五勺、向畑村が四五人で五斗六升二合五勺、花田村が三五人で四斗三升七合五勺、弥十郎村が二八人で三斗五升であった。この被災地困窮者には、その後さらに同月二十五日に粕壁河岸に到着した御救米船から米六俵三斗が割当られた。
一方越ヶ谷宿助郷のうち七左衛門・西新井・袋山・大間野・越巻の各村は、田畑の被害が大きかったが、宅地の被害は少なかったので、この夫食手当の配給から除かれた。また西方・登戸・四町野・神明下・荻島・谷中・砂原・後谷の各村、ならびに越ヶ谷町は無難の町村であったといい、勿論夫食の手当は与えられていない。
なお被災地のなかでも粕壁地域は、助郷二九ヵ村のうち全村が水難村であったが、一ヵ月近く経過した七月二十四日現在、まだ二一ヵ村が水中にあったという。これらの事情で伝馬交通の復旧は一向に進まなかったが、これを憂慮した幕府は、被災地の道中宿駅、ならびに助郷村に馬飼料拝借の下付を行なった。このうち宿駅に対する拝借の割当は、幸手・杉戸・粕壁の三宿がいずれも三一両と永五〇文、越ヶ谷町が金二両と永七〇文、大沢町が金六両と永二一〇文であり、この償還は五ヵ年賦によるものであった。また助郷では、幸手宿助郷が金一六八両三分と永一五〇文、杉戸宿助郷が金二七五両一分と永三〇文、粕壁宿助郷が金二六一両と永一四〇文、越ヶ谷宿助郷が六九両と永一〇六文であり、いずれも高一〇〇石につき金二両宛の割当である。この償還は同じく五ヵ年賦である。越ヶ谷宿助郷の馬飼料割当は、第24表の通り新方領のうち一〇か村であるが、これは助郷高に対しての割当であり、あくまでも伝馬交通のための助成を主眼としたものであったことが知れる。なお前記越ヶ谷宿助郷村々は、その後馬飼料拝借の増額を訴願し、高一〇〇石につき一両宛の増額が認められている。
村名 | 助郷村高 | 割当額 |
---|---|---|
石 | 両分 文 | |
花田村 | 245 | 4.3永150 |
大里村 | 350 | 7 |
大林村 | 197 | 3.3永190 |
大房村 | 367 | 7.1永90 |
弥十郎村 | 214 | 4.1永30 |
小林村 | 780 | 15.2永100 |
下間久里村 | 516.5 | 10.1永140 |
上間久里村 | 471.5 | 9.1永180 |
川崎村 | 145.5 | 2.3永160 |
吉畑村 | 168.5 | 3.1永120 |
また、このときの水害で被災した本陣は、それぞれ本陣修復拝借を願っていたが、同年十二月、越ヶ谷宿本陣権右衛門に金六〇両、粕壁宿本陣安左衛門に金七〇両、杉戸宿本陣清兵衛に同じく金七〇両、幸手宿本陣文左衛門に金八〇両の修復拝借が下付された。いずれも三ヵ年据置の一〇ヵ年賦償還の貸付であった。