文化十二年(一八一五)は、東照宮二〇〇年忌に当り、日光法会が盛大に営まれることになった。このため幕府は、文化十一年五月、日光宮修復御用の通行繁多による宿場ならびに助郷の伝馬負担を考慮し、日光道中各宿、ならびに助郷村に手当金を下付した。
このときの越ヶ谷宿の手当は金七両二分であり、助郷村々には、助郷勤高一〇〇石つき金一両の割で、金一一八両と永七〇文が下付された。同時に幕府は、日光法会御用通行者の休泊に備え、道中各宿駅の休泊施設の一斉修復を命じた。これにともない修復の手当として越ヶ谷宿旅籠屋には、総額金一三二両と永一三〇文四分の拝借金を下付したが、このうち金八〇両が本陣の修復拝借であり、そのほか本陣には金三両一分の補助金が与えられた。だが本陣修復の実際の経費は総額二〇五両に及び差引き一二〇両余は自己負担で賄ったという。本陣以外の旅籠屋も、拝借金の額が少なかったので、宿内外の親類縁者を頼み、あるいは頼母子講や土地の質入れなどで修復資金を調達したが、この修復費用の総額は、およそ金一〇〇〇両にものぼったといわれる。
翌文化十二年四月は日光法会である。この日光法会の往還向御用に対しては、幕府は越ヶ谷宿に人馬小屋の建設資金三〇両と、通行者休泊賄いの補助金三五両、合せて六五両を援助した。しかし日光法会に要した実際の往還向臨時入用は金二七〇両に及び、幕府からの援助費六五両を差引いても、なお金二〇五両の出費となった。この臨時入用は、越ヶ谷町が金一二三両、大沢町が金八二両の割合で負担し、それぞれ伝馬役百性が伝馬株に応じて割合出金することになったが、日光法会御用通行のための各人の負担は大きく、臨時入用金の徴収は困難をきわめたという。