利倍御貸附金

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幕府は、天明六年(一七八六)の関東洪水に被害をうけた日光道中筋宿々に対し、翌天明七年一月から五ヵ年季の人馬賃銭の割増を被害の程度に応じて認めた。越ヶ谷宿では割増率が二割五分と定められたが、割増分の一割は勤人馬に、一割は宿場助成に廻され、残りの五分は〝刎銭〟として五五ヵ月間、関東郡代伊奈右近将監役所に積立てることとなった。この積立金は金五〇〇両を目途にして、利倍御貸附金に廻され、この利金が年々宿場に還元される仕法であった。

 満期の寛政三年(一七九一)、日光道中各宿の積立金はいずれも成績が悪かったが、越ヶ谷宿でも金五〇〇両の予定額にいたらなかったので、道中取締役から重ねて積立金の満額納入を勧告された。越ヶ谷宿では満額不足分を伝馬役百姓の高割出金などで徴収し、文化の初年にようやく金五〇〇両の貸附基金を達成した。この貸附基金は文化三年(一八〇六)からその利金が宿場に還元されることになり、一割の利金五〇両が年々越ヶ谷宿に渡された。このうち越ヶ谷町への割渡し金は三二両二分であり、すべて伝馬役百姓に割渡されたが、大沢町の割渡し金一四両二分は往還向入用金のなかに組入れられた。なお日光道中のなかで、このとき金五〇〇両の貸附基金を達成したのは、粕壁・杉戸・幸手の各宿であり、その利金五〇両の割渡しも各宿によってそれぞれ異なっていた。

 その後文化六年になると、この貸附金の利率は一割二分に改められたので、二分の利金一〇両が増額されたが、これは各宿場とも本陣の助成に廻された。この一割二分の貸附利金は、その後文政六年(一八二三)に再度年一割の利金に戻されたので、改めて利金割渡しの組替えがおこなわれた。越ヶ谷宿では金四一両二分余が往還向入用金に組入れられ、金八両一分余が本陣助成に廻されることになった。粕壁宿そのほか貸付基金を達成した宿では、このときはおよそその利金は同じような配分であった。

 このほか幕府は、助郷村にも助郷諸手当金のうちから利倍貸附金の積金を勧告していたが、これに応じない村もあり、その積立成績は各宿助郷いずこも同じようであったようである。すなわち文化十一年の越ヶ谷宿の書上げによると、貸附金の積立額は、越ヶ谷宿助郷のうち四町野村ほか一六ヵ村が合せて金一四六両と永五三文九分であり、粕壁宿では助郷のうち備後村ほか二ヵ村が合せて金九九両一分と永一三四文六分の積金、両宿助郷合せても金二四五両一分であった。なおこの助郷積金に対しては年一割の貸附利金が下付され出資各村に配分された。