越ヶ谷宿本陣福井猷貞(一七六九~一八二二)によって編さんされた郷土の地誌「大沢猫の爪」(越谷市史(四)七九頁)、ならびに「越ヶ谷瓜の蔓」(越谷市史(四)四三頁)のなかに、元禄八年(一六九五)検地の際の名請者の家を中心に、大沢町と越ヶ谷町の家別の調査記録が記されている。猷貞はこの調査の結果、「元禄八御検地名所受の百姓九分通り退転仕り候」と、元禄検地で名請した家の九割が一世紀余を経た化政期までに移動していると述べ、住民動態のはげしさを語っている。
それだけに、当時猷貞によってこころみられた宿場住民の動態調査は、きわめて困難な作業であったと思われ、越ヶ谷町は勿論、地元大沢町においても、全住民を対象としようとした調査は難行し、わずかに判明したものに限りこれを記述せざるを得なかった。しかしこの限られた住民動態の調査記録のなかからでも、宿場住民の移動年限やその出身地を抽出すれば、宿場における住民動態のおよその傾向を知ることができると思われる。
ただしことわっておかねばならないのは、猷貞が調査の対象にした宿場の住民とは、土地を所有している百姓で、しかも往還に面した表屋敷の所持者、いわゆる伝馬役百姓を指している。越ヶ谷・大沢両町ともに伝馬役百姓は株によってその数が規制されており、伝馬役屋敷株所有者が町政に参加し、かつ伝馬役を負担する一人前の住民であった。その他の土地や屋敷を所有しない住民は地借・店借と呼ばれ身分的にも区別されていた。
このうち伝馬役屋敷株は、宝永四年(一七〇七)の書上げでは、大沢町が七三軒、越ヶ谷町が一二〇軒半であったが、このほか往還に面した屋敷の間口が六間に満たない屋敷を歩行役、あるいは半軒役と称し、大沢町に五軒、越ヶ谷町に二一軒を数えていた。大沢町では、この歩行役を二軒で伝馬役一軒とみなし、伝馬役屋敷を合計七五軒半として幕末までこの株数に変化はない。越ヶ谷町では文化・文政年間には、伝馬屋敷が一二三軒半、歩行屋敷が二五軒半であり、宝永四年にくらべ伝馬屋敷三軒、歩行屋敷四軒半がそれぞれ増加している。これは宝永四年以後、往還通りの屋敷が新たに造成されたためと思われる。
この屋敷株は年代を経るにしたがい、かならずしも一軒一名による所持ではなく、一軒屋敷株が二分の一株、三分の一株と細分された形で所持されることもある反面、同一人が二株三株と複数の屋敷株を所有することも多くなった。一例を挙げると、「百姓八五郎と申すは、安永年中羽生領大越村より来り、紺屋久八と申し候て二軒前の株に成り候所、養子久左衛門代に成り、右地面残らず流地に成り候節、久八兄八右衛門甥八五郎へ四分一相渡し候」とあり、また「関口新左衛門は、旧家にて元禄度名所請候処、宝暦中半軒源七へ、明和中四分一彦八、安永中四分一政右衛門へ渡り無名に成り、彦八分又候はし長兵衛へ渡る」とあって、伝馬屋敷株所持者は頻繁に変動していたことが知れる。