住民の動態

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猷貞のこの調査記述は主に聞書によったものが多かったとみられ、しかも調査途中で未定稿の箇所もあるので、正確な数字ではないが、一応猷貞の記述にもとずいて作製したのが大沢町と越ヶ谷町の第26・27表のような百姓動態表である。この記述を表に整理するうえで「大略元禄八御検地名所上に記、其片書には元和・寛文の名所書添」とある町並図の冒頭の凡例にもとずき、あきらかに元和・寛永・寛文の名請人であることが確認できるものは元和、あるいは寛永・寛文の住民とし、おそらく猷貞が確認できなかったものとみられ原本にただ○○屋敷と付されたものは元禄の部に入れた。また「今程」とあるのは整理の都合上大沢町分は文化度の数に入れ、越ヶ谷町分は年代不詳であるので「近頃」の項を含め不明のなかの数に入れた。「中古」とはおよそ元禄以後享保頃までをさしていたと思われるが、中古の用語をそのまま用いた。また屋敷株の移動過程で同一人が退転者や潰れ百姓の屋敷株をしばしば所有することがあったので、なかには重複したり脱洩したものがないとはいえないし、その年代も推量して付したものもあることをおことわりしておきたい。

第26表 越ヶ谷町伝馬役百姓の動態
伝馬株取得者数 潰れ・退転・減株数
年代 伝馬株 半軒株 年代 伝馬株 半軒株
元和以前 18
寛永・寛文 3
元禄 36 8 元禄 4
中古 11 2 正徳 1
享保 4 中古 6
延享・宝暦 4 享保~宝暦 5
明和~安永 3 3 明和~安永 10
天明~享和 10 4 天明・寛政 12
文化 1 4 享和・文化 5
近頃不明 1 3 近頃不明 2 6
第27表 大沢町伝馬役百姓の動態
伝馬株取得者数 潰れ・退転・減株数
年代 伝馬株 半軒株 4分1株 年代 伝馬株 半軒株 4分1株
元和以前 17
元禄 62 元禄 8
中古 3 2 正徳~中古 12
宝永~享保 2 4 2 享保 5
寛保~寛延 3 寛延~宝暦 7 1 1
宝暦~明和 8 4 4 明和~安永 22 1
安永~天明 12 13 2 天明 3
寛政~享和 5 7 寛政 2 1
文化 6 1 享和 3 1
不明 3 文化 5 2

 まずこの表から町民動態の傾向を読みとると、両町とも元禄年間(一六八八~一七〇三)には、すでに住民の移動交代がはじまっていたが、享保年間(一七一六~)以後、宝暦年間から天明年間(一七五一~八八)にかけての移動がもっともはげしい。このなかの退転者や潰れ百姓には、中世からの越ヶ谷町居付百姓会田出羽家や浜野藤右衛門家をはじめ、本陣・問屋・名主の三役兼帯を勤めてきた会田八右衛門家、大沢町の〝町人役〟という特殊な身分であった深野・内藤両家など、越ヶ谷宿創設期の有力者が多数含まれている。

 逆に、新たに百姓株を取得したもののなかには、大沢町の嶋根家のように「元禄年中、中組へ八条領青柳村より引越し、段々大家に相暮し申し候、御検地縄入れに付、自分名所相願い候へ共、元株の者片書にて喜兵衛取添と御記し御座候、御検地後三ヵ所の屋敷一円に致し、当時の屋敷へ引越し申し候、猶又正徳年中越ヶ谷中町会田五郎兵衛(五郎平)大屋敷、并に御殿歩行屋敷等其外青柳村旧株、弥十郎村越石共享保以後七十八町新株所持」とあるように、嶋根氏は元禄期に八条領青柳村から移住し、大沢町の住民になったが、元禄の検地帳にはその肩書に、以前の屋敷株の所持者喜兵衛の取添として記されたという。つまり元禄検地の際にはまだ当所に現住していなかったためであろう。だが検地後三ヵ所の名請屋敷を一つにしてそこへ引越し、正徳年間(一七一一~一六)越ヶ谷町会田出羽家の表屋敷や御殿の歩行屋敷株なども取得した。さらに享保期(一七一六~三六)以後弥十郎村の越石などを含め、七八町歩に及ぶ田畑屋敷を取得したという。

 このほか他村から地借・店借として来住し、紺屋や旅籠屋などを営み、あるいは奉公勤めから伝馬屋敷株を取得した例もある。たとえば「宝暦中幸手在より紺屋職人入夫、身上取直し候に付、在所の苗字白石を号し家名を吉田屋と唱え、其妻おつる稼人ゆへ世俗におつる紺屋という」とあるように、夫婦ともに紺屋稼ぎに精励し、潰れ百姓を再び立て直した者もある。また「正(照)光院長屋にて車力、下宿へ罷越し旅籠屋渡世、忰茂兵衛代に相成り百姓株に相成り申し候」とあるように、照光院長屋住いで車力稼ぎをし、のち旅籠屋を経営して伝馬屋敷株を取得した者もある。さらに「享保以後平方村より大蔵方に年久しく罷在り、給金の代右地面譲り請け候」とあるように、長年嶋根大蔵方に奉公を勤め、給金代りに屋敷地を譲られた者もいた。

 また、享保期水戸から越ヶ谷町に移住し、宝暦三年(一七五三)から質屋や古着の渡世を始め、高一五石余所持の伝馬百姓になった本町の三鷹屋嘉兵衛など、新興商人層の例もみられるし、奈良屋を称した京都沢井の出店などの例もみられる。すなわち「会田八右衛門屋敷半株所持、奈良屋又兵衛は、天明年中京都呉服問屋沢井出見世、天明年中幸手奈良屋番頭新八始て此所へ出見世、番頭役相勤め申し候」とある。これによると、天明年間(一七八一~八九)京都呉服問屋沢井の出店、幸手宿奈良屋の番頭新八が、越ヶ谷本町会田八右衛門屋敷の半株を取得して、奈良屋の出店を当所に開いたという。しかし屋敷株の変動は、「中宿太郎左衛門分地、下組塩風呂伝蔵等に相分け、甚五右衛門等并に五郎左衛門等分家これあり」とあるように、分地による変動が多い。なかには株分けによって衰微した家もあるという。

 つぎに他国や他村から転入してきた者の出身地をみると、大沢町では河内や近江など上方方面の者が四例、江戸・水戸・岩槻などの町場からの転入者が四例、大房・平方・大場など、越ヶ谷宿近在の村々からの転入が二五例を数えてもっとも多い。越ヶ谷町では伊勢が三例・近江が二例、河内が一例、京都が一例そのほか一例と上方からの転入が八例、数えられる。また水戸・鎌倉・上総からの転入が各一例、砂原・登戸・船渡など宿近在の村々からの転入が八例ほど確認できる。越ヶ谷町では近郷からの転入も多くみられるが、上方からの転入が意外に多かったのが指摘される。

 このほか、宿場の住民で駄賃稼ぎや小商いで生計をたてていた多くの地借・店借層がいたが、かれらの出身地は不明である。しかしおそらく越ヶ谷宿近郷村々の転入が多かったであろう。たとえば、越ケ谷町内藤家の「記録」によると、天保三年(一八三二)十二月、砂原村百姓太右衛門忰太兵衛が、「其御宿内へ罷越し、小商内致したき存意につき」とて、越ヶ谷本町三鷹屋嘉兵衛の地所を借受けて商売を始めている。同じく天保元年三月、恩間村百姓源左衛門の忰弁蔵が、妻や母とともに「其御宿内百姓嘉兵衛殿地所借地仕り、去丑八月中引移り候」とて、恩間村から越ヶ谷町に転入している。