伝馬役百姓は、両町とも株によって固定されていたので、株が細分されない限り戸数の増加は望めない。しかし地借・店借による戸数の増加は別に制限がなかった。左に掲げた大沢町の戸数推移表をみると、寛延三年(一七五〇)から天明五年(一七八五)までの間には急速な戸数の増加がみられたが、天明期以降は停滞現象を示し、場合によっては減少を示すときもある。これは越ヶ谷町も同じ傾向である(第28・29表参照)。このうち天明期から享和期にかけての戸数減少は、天明六年と享和二年(一八〇二)の大水害が影響したものかも知れない。また文政期から天保期にかけての戸数減少も、天保四年(一八三三)から続いた飢饉によることが考えられる。すなわち天災などの凶作時は米価をはじめ物価が高騰し、小商いや駄賃稼ぎで生計を立てている地借・店借層は、耕地を持たないだけにまっさきに物価高騰のあおりをくって困窮する。
年代 | 戸数 | 人数 |
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寛延3年(1750) | 383 | |
天明5年(1785) | 463 | 男 804 女 831 |
享和2年(1802) | 420 | 男 791 女 941 |
文化9年(1812) | 467 | |
文政5年(1822) | 481 | |
天保14年(1843) | 435 | |
明治9年(1876) | 450 |
年代 | 戸数 | 人数 |
---|---|---|
天明5年 | 535 | 男1,208 女1,191 |
文政5年 | 549 | |
天保14年 | 542 | 男1,272 女1,275 |
明治9年 | 566 |
事実、越ヶ谷町内藤家の「記録」によると、越ヶ谷町では慢性化した凶作や、開港による国際貿易に結果した物価の高騰により、幕末期にはしばしば地借・店借の困窮者に施米や施金の救済を行なっている。つまり、地借・店借層の農村からの流入は、すでに困難であったことを示している。しかも宿場財政の悪化から、宿場にとっても地借・店借層の流入は伝馬役百姓の負担を増すものであり、決して歓迎すべきものではなかったであろう。
こころみに、この地借・店借層の住民構成に占める比率を、大沢町寛延三年(一七五〇)の記録でみると、当時の大沢町総戸数は三八三軒である。このうち百姓が六三軒、地借が三〇軒、店借が二六二軒の住民構成であり、地借・店借層が全住民の約八〇%近くを占めている。同じく越ヶ谷町を天保十四年(一八四三)の記録でみると、越ヶ谷町の当時の総戸数は五四二軒である。このうち百姓が一二五軒地借・店借が四一二軒で、大沢町と同じく約八〇%近くの比率を占めており、宿場の住民の多くは地借・店借層であった。