道中宿駅の定められた数の提供人馬で不足の場合は、宿駅近在の村々から人馬を徴発してこれを補充した。近在の村々からかりだされたこの人馬を〝助郷〟と称した。日光道中では元禄九年(一六九六)に助郷が制度化され宿駅付属の助郷村が指定された。はじめは大通行の場合に助郷が使用されたが、年とともに交通量が増大し、助郷の使用は日常的なことになった。さらに時代が降ると助郷人馬の使用数が宿人馬の使用数を上廻るのが普通になった。
たとえば西方村「伝馬地」によると、寛政十二年(一八〇〇)の越ヶ谷宿日光法会の人馬勤めは、加助郷を含め総数人足が一万二八七〇人、馬が三九二三疋である。このうち一〇五〇人・一〇五〇疋が宿人馬の勤め、一万一八二八人・二八七一疋が助郷勤めであり、人足八三六人、馬四八七疋の助郷上返し(使用しなかった人馬)分を加えると、助郷馬が宿馬の三倍近くを勤め、助郷人足は宿人足の一〇倍以上を勤めている。この助郷人馬数を石高あたりにすると、高一〇〇石につき人足四二人五分、馬一〇疋三分三厘の割当てにあたっている。このときの日光法会通行は二一日間であったので、高一〇〇石を所持した百姓は、一日あたり人足二人、馬は二日に一疋を負担した勘定である。これは特別の通行による助郷人馬の負担例であるが、年間を通じて伝馬交通に占める助郷の比重は大きなものになっていた。
ことに道中の通行者は、日光法会などの大通行を含め、春と秋に集中したので、助郷の徴発も春と秋に多くかりだされた。だがこの時期は、農民にとっては、農作物の仕付けや収納を行なう農繁期にあたっており、農作業の差支えを恐れ、人馬勤めを金で雇って勤めることが多くなった。
この雇替勤めに関しては、すでに万治元年(一六五八)に、幕府が宿役人と助郷村の役人から誓紙を徴したなかに、金子で馬を請負ったり、請負を頼んではいけないという一条があるので、人馬の請負勤めは古くからひそかに行われていたのであろう。これが天明年間(一七八一~八九)になると、越ヶ谷宿助郷村々では割当人馬を金銭で雇う雇替勤めが一般的になった。
七左衛門井出家文書によると、「助郷村々人少なく、殊に馬持絶え農業仕来り候に付、又は収納其外差障りこれあり」とて、天明二年(一七八二)雇替勤めを道中奉行桑原伊予守役所に願いでたが、このときから公式に雇替勤めが許されたという。この雇替勤めの方法は、あらかじめ一年間の伝馬割当量を見込み、その雇替賃の見積り額を村びとから高割によって徴収した。この資金をもとに助郷雇替惣代が助郷伝馬一切を請負うのである。
高割による村びとからの徴収額は、そのときの伝馬賃銭相場や、伝馬需要の多少で変動があったが、天明二年のときの越巻村では、高一石につき銭三五〇文である。ただし村びとが割当人馬を正勤したときは、人足一人につき七二文、馬一疋につき一三四文の割で請負銭のなかから差引勘定をすることになっていた。つまり助郷人馬は普通御定賃銭が支給されることになっていたが、御定賃銭は低額であったので、村々の負担で割増銭がつけられていたのである。ついで寛政二年(一七九〇)のときの西新井村では、高一石につき銭三〇〇文、これに惣代給料として銭四八文、合せて銭三四八文の割当であり、正勤人馬に対しては、人足一人に七二文、馬一疋に一三四文の割合で差引勘定をすることになっている。その後西新井村では、文化十三年(一八一六)に高割徴収額が高一石につき四〇〇文となり、正勤人馬は人足一人七二文、馬一疋二〇〇文に改められた。
これら雇替勤めに要した高割出金の基準は、越ヶ谷宿助郷一率の標準であったか、村によって異なったかつまびらかでないが、文政元年(一八一八)には、越ヶ谷宿助郷二三ヵ村が、上間久里村次右衛門、西方村平内ほか二人を助郷雇替惣代に依頼していたので、このときは越ヶ谷宿助郷一率のものであった。この雇替銭は高一石につき銭四二四文の割合であったが、臨時通行が多かったことを理由に増銭を要求され、高一石につき銭六二三文の出金となった。
このため村々の不満がたかまり、翌文政二年、越ヶ谷宿助郷のうち四町野村はじめ一〇ヵ村が雇替惣代仕法から離反し、人馬正勤仕法に切替えた。雇替による助郷負担の過重にたえかねたのである。他の助郷村もやはり人馬正勤に切替えたが、こんどは助郷村々がお互いに人馬の不足分を補いあう人馬融通勤めの惣代をめぐり、助郷村同志のはげしい争論となった。しかも文政十年のとりきめでは高一石につき銭六〇〇文の高割徴収で、惣代が助郷伝馬を一切取はからうことにされたので、実質的に雇替仕法はそのまま存続していたのである。
このように助郷の伝馬負担は過酷なものであっただけに、人馬の割当をめぐり、助郷村と宿との対立も根深いものがあった。なかでも必要以上に助郷人馬の割当をしたために空戻りする人馬が多かったことや、助郷人馬に無賃人馬の継立をさせることが、助郷にとって大きな不満であった。そのほか宿の御定人馬や囲人馬をめぐって争われることもある。越ヶ谷宿では明暦三年(一六五七)に一日の提供人馬が二五人二五疋と定められ、その後五〇人五〇疋に改められたが、このきめられた数の宿人馬を使いきってから助郷人馬を使用することに定められている。これが守られず定められた数の宿人馬を使いきらないうちに助郷人馬が使われることもあったのである。またこの御定人馬のうちに、実際には使用しない一定数の囲人馬が許されていたが、この定数をめぐりまた宿側と対立した。囲人馬はその分だけ助郷人馬に転稼され、助郷村の負担となったからである。つぎにこれら助郷の伝馬負担をめぐって展開された、主な争論の経過をみてみよう。