元文元年の宿と助郷の争論

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越ヶ谷宿助郷のうち神明下村をはじめ、一五ヵ村が越ヶ谷宿役人を相手に訴訟を起し、元文元年(一七三六)十月、道中奉行所の裁許申渡しがあった。この裁許の請書(西方村「伝馬地」)によると、訴訟方の出訴理由の要旨は、

 (1)越ヶ谷宿は他宿と比べ、必要以上の人馬を助郷村に触当るので、空戻りする人馬が多く村々迷惑である。

 (2)御朱印人馬・御証文人馬の無賃人馬は、宿人馬の勤めであるが、無賃人馬・賃銭人馬の区別なく、これを平均に宿人馬と助郷人馬に割当て継立させている。

 (3)越ヶ谷宿には問屋場が二ヵ所あるので、助郷側が負担する問屋場経費が二重にかかり難儀である。

 (4)助郷出人馬の通帳を問屋場に置いたままで、助郷側に確認の捺印をさせない。

 (5)問屋弥兵衛は、人馬触当などの廻状に苗字を記し、年寄達の加印もない。すべて権威がましい振舞いであり人馬の割当が公平に行なわれているか疑わしい、

 というものである。これに対し宿方役人の申し分の要旨は、

 (1)越ヶ谷宿は御定めの通り、五〇人五〇疋を宿方で負担しているので、余分な人馬を助郷に触当る訳はない。ただし割当た助郷人馬が不参・遅参するのでその分を見込み、少々宛余分に触当ることもあるが、これは先頃も掛り役人の諒解を得ている。

 (2)無賃人馬・賃銭人馬の差別なく、これを助郷人馬に割当てることはない。ただし日光御用通行のときは無賃の人馬が多いので、助郷村々がこれを助け合うのは当然である。

 (3)越ヶ谷宿は古くから、越ヶ谷町と大沢町に問屋場をたて、一日交代で往還御用を勤めてきた。今さらこれを変更することはできない。

 (4)助郷勤高通帳には、問屋が確認して捺印し、不参人馬の分は村々宰領にこれを示して確認の捺印をとっているので間違いはない。

 (5)問屋弥兵衛は前々から苗字を名乗っているが、廻状には年寄達の加印を求めている。人馬の触当が疑わしいというのは、訴訟方のいいがかりである、

 というものであった。この訴答に対する奉行所の裁許の要旨は、

 (1)越ヶ谷宿御定め人馬五〇人五〇疋を使いきった後でも、無賃分の人馬を助郷に勤めさせてはならない。ただし本当に宿方で人馬が不足のときは、助郷でこれを助けなければならない。

 (2)賃銭人馬の分は、助郷人馬を使いきってから宿人馬を使用する。

 (3)問屋帳面と助郷の通帳には、毎日宿方と助郷方が間違いがないか調べて確認の捺印をとる。

 (4)問屋場を二ヵ所設けているのは他の道中筋にもあることで越ヶ谷宿だけの例外ではない。しかも交替で勤めているので経費が二重にかかるという言い分は認められない。したがって今迄どうりでよい。

 (5)問屋弥兵衛は、今後廻状などに苗字を記さず、かならず年寄連名でこれをだす。

という申渡しであった。この訴答の言い分にみられるとおり、まだこの時点では利害の反する宿と助郷の矛盾を表面にたて、宿対助郷の対立として争われていた。その後助郷が伝馬交通に大きな比重を占めるようになると、助郷村の負担の平均やその軽減を目的に、助郷惣代が常時問屋場に詰めるようになった。こうして助郷惣代が伝馬業務に介入してくると、こんどは助郷惣代をめぐり、助郷惣代対助郷村、あるいは助郷村対助郷村の抗争が生じ、これに宿場役人がからんで問題は複雑になっていった。助郷惣代がいつから問屋場に詰めるようになったか、はっきりしないが、越ヶ谷宿ではすでに安永五年(一七七六)に助郷惣代をめぐった抗争が表面化している。