安永四年、越ヶ谷宿助郷村々は、小林村茂左衛門・大房村弥五左衛門の両名を問屋場詰の助郷惣代に選び、助郷伝馬の諸業務を管掌させた。ところが翌五年になると、両名の助郷惣代がその給金と雑用銭の増額を求めてきたので、大林村ほか八ヵ村が定惣代を廃止し、村々廻り番惣代制の採用を要求した。越ヶ谷宿助郷村はこれについて論議をたたかわせたが、このときは大林村ほか八ヵ村の主張がしりぞけられた。要求を拒まれた九カ村はこれを不満とし、助郷二三ヵ村による惣代仕法から離反したうえ、道中奉行所に、惣代経費の節約のためと称し、村々順番惣代制の採用を出訴した。
訴答は奉行所で争われたが、途中訴訟のため出府した者を専門に宿泊させる江戸宿が調停にたち入り、同年十一月内済となった。この済口証文によれば、、安永五年度は規定の通り両名の者に定惣代を勤めさせる。翌安永六年度からは村々廻り役で惣代を勤めるという内容である。この惣代の組合せはくじによってきめられ、一月は花田村と西新井村の当番、二月は袋山村と小林村、三月は神明下村と向畑村、四月は七左衛門村と川崎村それに越巻村、五月は荻島村・七左衛門村・小林村、六月は登戸村と四町野村、七月は後谷村と大房村、八月は弥十郎村と神明下村、九月は谷中村・四町野村・大里村、十月は大林村・下間久里村・上間久里村・砂原村、十一月は西新井村と荻島村、十二月は砂原村と大間野村という月番組合せになった。
このほか月番惣代の筆墨紙は一ヵ月に筆三本宛、墨は一丁宛とこまかく規定され、蝋燭や巻紙などを含めすべての雑用銭は、事務の繁多な四・五・九・十の四ヵ月は銭六〇〇文、その他の月は銭五〇〇文と定められた。また助郷が勤めた人馬賃銭は、これまで惣代が問屋場から一括して受取り、賃銭勤め、無賃勤めの差別なく出人馬一同に平均して割渡したが、以来は賃払いの分は、出人馬の者が直接に問屋場から賃銭を受取るなどもきめられていた。
しかしこの月番惣代がその後順調に実施されていたとは思えない。助郷惣代は伝馬業務に馴れた技能者でなければ勤まらない役であり、しかも助郷の伝馬負担はいよいよ増大の傾向にあったからである。その後の助郷惣代の動向やその経過は不明であるが、この助郷惣代をめぐる諸問題が、文政二年(一八一九)に集約された形で表面化した。