文政二年の助郷惣代一件

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先述の通り、越ヶ谷宿助郷は天明年間(一七八一~八九)から、道中奉行桑原伊予守の許しを得て、金銭で人馬を雇う人馬雇替仕法を実施してきた。これは助郷村々から高割徴収で集めた資金をもって、助郷雇替惣代に伝馬業務一切を請負わせる方法である。文政元年、越ヶ谷宿助郷は、この助郷雇替惣代に、上間久里村次左衛門と西方村平内、ほか二名の者を頼んでいたか、臨時通行が多かったことを理由に増銭を要求され、翌文政二年越ヶ谷宿助郷のうち一〇ヵ村が雇替仕法を廃し伝馬正勤に切替えた。ただし人馬の故障で割当通りの人馬が出勤できないときのため、各村どうしが人馬勤めを融通しあうことにし、この業務の取扱人として川崎村伊兵衛と四町野村小左衛門を惣代にたてた。

 ところが他の助郷一三ヵ村が越ヶ谷宿問屋を含め、前記一〇ヵ村を相手に道中奉行榊原主計頭役所に出訴した。出訴の直接の理由はつまびらかでないが、同年三月相手村々が奉行所に提出した返答書(越谷市史(三)六〇四頁)によると、その要旨は、

 (1)相手一〇ヵ村が惣代にたてている四町野村の小左衛門は、宿場の者に頼まれ、一〇ヵ村の伝馬請負をしていると非難しているが、伝馬業務に馴れている者なので、川崎村の伊兵衛とともに惣代を頼んだもので、伝馬の請負を頼んだのではない。また訴訟方では村順に五日代り二名づつの惣代を問屋場に詰めさせているが、人馬の継立や帳面仕立の諸業務に馴れない者が、つぎつぎと交代で勤めるので混乱をおこしている。訴訟方でも相手村と同じく定惣代を見たてて勤めさせるように願いたい。

 (2)訴訟方では、相手村々は宿役人と馴れあい、不正を働くつもりなので、訴訟方との話しあいを拒んでいると非難するが、相手村々は定惣代をたてて伝馬業務を処理させているので、私利私欲のための介入はできない。

 (3)訴訟方でも相手村々と同じように、人馬雇替仕法を止めて正人馬勤めをはじめたが、我々相手村々より余分の人馬割当をうけると非難している。だが人馬勤めは月々の過不足を調べて平均することになっているので、不法な人馬割当はできない。当年の三月にも人馬勤め平均調整の実施を申し入れたが、これに応じなかったのは訴訟方である。今後訴訟方でも宿役人の立会いで人馬勤め平均の調整を実施するよう願いたい。

 (4)訴訟方では、宿・助郷の人馬勤めを確認するため、宿場前後に札揚会所(人馬勤めの者に与えた番号札を引上げる会所)を設置するよう申し入れたが、相手村々は同意しなかったと非難するが、近頃このような申し入れを受けたことはない。六年以前札揚会所の設置が話にでたが、札揚会所の勤め人の給料そのほか会所入用金が多分にかかるということで、そのまま見合せになっていたはずである。

と返答していた。結局この訴訟一件は、訴答掛合のうえ和解が成立し、同年十二月内済となった。内済の内容は、はじめ争われた訴答の主張とはまるで異なり、そのほとんどが宿人馬の遣い方をいちじるしく制約するものであった。助郷村々を二分して争われた一件は「一躰助郷は一統の儀に付」という内済証文の字句に示されたように、いつの間にか宿と助郷の対立に還元されていたのである。この内済条項の要旨を示すと次のとおりである。

 (1)いままでは、買揚雇人馬で伝馬勤めをしてきたが、雇替賃銭が多分にかかって村々困窮の基であるので、雇替勤めはしない。人馬に差支えが生じたときは、一村限り相対によって人馬を雇う。また宿人馬五〇人五〇疋の遣い方を助郷惣代が不正のないよう監視する。

 (2)宿人馬五〇人五〇疋をまず差引いたのち、必要とする数の人馬を助郷勤高に応じて平均に村々へ割当る。このため助郷惣代も人馬触廻状には間違いのないことを確かめて奥書に捺印する。宿方ではすべて助郷惣代と打ち合せのうえ伝馬業務を履行する。

 (3)越ヶ谷町と大沢町に札揚会所を設け、助郷村から会所惣代二人づつ五日代りに出勤する。この会所では、宿・助郷の出人馬に渡した番号札を回収し、人馬勤めの実数を確認することで、余分な助郷人馬の割当を監視するものである。

 (4)宿方では、今まで五〇人五〇疋の御定人馬のうち〝夜詰馬〟と唱え、一〇人八疋の囲人馬を使用人馬から除いていたが、以来は囲人馬を五人五疋とする。このほか遠見人足・鷹匠水夫人足・囚人番人足・先払人足等は、本来宿場の〝地役〟〝宿役〟であるので、宿の御定人馬や助郷人馬は使わない。

 (5)囲人馬を除いた宿の御定人馬四五人四五疋を遣いきらないうちは、助郷人馬を使わない。

 (6)御朱印・御証文の無賃人馬が年々多くなっているが、なかには無賃人馬の許可数を超えた分を賃銭で支払うものもいる。宿方ではこれを残らず取上げてしまうが、助郷人馬の勤めた賃銭分はこれを惣代に渡す。

 (7)日光門主そのほか日光宮御用通行者の下役のなかには、足痛などで宿篤籠や軽尻馬を使用する者がいるが、以来はこれを断り、やむを得ないときは賃銭払いの取扱いをして助郷人馬の負担を軽くする。

 (8)伝馬の諸帳面はその日のうちに調べあげ、間違いがないのを確かめるとともに、助郷惣代もこれに毎日検印する。

という宿方にとってはきびしいものであった。因みに、この約定によって越ヶ谷宿がこうむった余分な伝馬負担を、福井家文書文政四年の「御内々御尋に付諸家様風説申上」によってみると、御定五〇人五〇疋のうち、五人五疋の囲人馬を除き、四五人四五疋すべて御伝馬に使い、その余、先払人足、遠見人足、水夫触人足等々は、助郷や御定人馬を使わず、宿場の〝地役〟と定められたので、越ヶ谷宿では御定人足五〇人のほかに、二〇人の地役人足を雇った。この地役人足は一年一人あたり金三両の給金であったので、金六〇両を伝馬役百姓から余分に割合い雇用した。ところが御用繁多な月には二〇人の人足では間に合わず、臨時の人足を雇う始末であったので、金八〇両の出費になった。しかも地役人足は無賃の勤めが多かったので、一年一人金三両の給金では人足が集まらない。そこで文政四年度は金九〇両の予算見積りをたてたが、それでも人足が集まるかどうかわからない。このように入用金が増大しては、宿場はいよいよ困窮し、先行き不安であると訴えている。囲人馬数の減少や、地役人足の宿場負担が、このように直接宿場財政に大きく影響していたのである。

 ついで翌文政三年一月、和解した助郷村々は改めて「御伝馬勤方助郷議定」をとりかわし、議定にもとずいた伝馬勤めの実施を確認した。この議定の条項には、触当られた人馬は、通知された時刻通り不参・遅参なく問屋場へ出勤する。もし夜中になったり俄か雨になったりして逃げ帰ったときは、過怠金として人足一人銭二〇〇文、馬一疋銭四〇〇文を徴収する。遅参・不参で雇人馬をかわりに使ったときは、この人馬賃銭がいくら高額であってもこれを本人からただちに徴収する。本人が払えないときは村役人がこれを立替えて惣代に支払う。急触などで、助郷へ人馬割当を通知する余裕がないときは、惣代が必要人馬を買上げて間に合せる。この買上げ賃銭は、そのつど助郷村の高割合で徴収する。などが定められており、いずれも助郷の正人馬勤めを前提としたとりきめであった。

 また、この勤方議定とともに、文政二年十二月の約定にもとずき、札揚会所が設置されたが、この会所入用金の一ヵ年間の予算内訳もきめられた。これによると、会所の借家賃が金七両、札揚会所惣代給料が金一〇両、筆墨紙代が金三両、水油蝋燭代が同じく金三両、助郷惣代四人分の給金と雑用金合せて金六七両、臨時雇いの惣代下役給金その他が金一七両、大通行に要する札揚会所臨時増惣代ならびに臨時助郷増惣代の給金が金一三両、合計金九七両の予算額である。この会所入用金九七両は助郷惣高に割合、高一〇〇石につき銭一貫五〇文の割合で徴収することになった。ただし村順五日代りと定められた助郷惣代は、村々の役人が伝馬業務に馴れるまでという条件で、下間久里村久左衛門、上間久里村幸蔵、荻島村長蔵、四町野村文治郎の四人に、暫定的という条件で定惣代を依頼していた。