文政五年の争論

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ところが、この暫定的な定惣代がそのまま持切り惣代を続け、村順五日代りの惣代制が実施されなかったので、助郷村のうち砂原村・大房村・大林村・西新井村の四ヵ村はこれを不満とし、人馬買上賃銭そのほか札揚会所入用金、惣代給料割当金などの諸勘定を未納にして抵抗を示した。これに対し、登戸村ほか一九ヵ村は、助郷諸経費の未納を咎め、砂原村ほか三ヵ村の役人一四人を道中奉行石川主水正役所に出訴した。この訴訟中相手方惣代大房村名主ほか四名は、奉行所からお咎めにあったが、文政五年二月、訴答話し合いの結果和解が成立し内済となった。

 内済の内容は、登戸村ほか一九ヵ村は文政二年の約定に違反し、下間久里村久左衛門ほか三名の者を定惣代にたて、持切り惣代にさせたのは間違いであったので、村順五日代りの当番惣代制を実施する。また相手四ヵ村は理由のいかんによらず、助郷諸経費を未納にしたのは心得違いであり早速納入する、との示談内容である。これにより同年三月、村順五日代り惣代制を実施し、惣代勤日割帳が作製された(第30表)。

第30表 惣代勤めの日割
割合 1番組 2番組 3番組 4番組
日割
日 日
1~5 登戸村 七左衛門村 四町野村 大里村
6~10 西方村 七左衛門村 谷中村 大林村
11~15 小林村 大間野村 神明下村 大里村
16~20 花日村 越巻村 荻島村 下間久里村
21~25 向畑村 西新井村 砂原村 上間久里村
26~30 川崎村 後谷村 袋山村 弥十郎村

 すなわち、越ヶ谷宿助郷二四ヵ村を六ヵ村宛一番組から四番組までの四組にわけ、各組から一名づつ計四名が五日宛の惣代を順番に担当することになった。このときの議定では、買人馬賃銭の予備費として、高一〇〇石につき金二朱宛をあらかじめ村々から徴収しておき、この資金をもって買人馬賃銭などにあてること。また人馬勤め平均調べにあたっては、不参人馬の買上げ賃銭を、人足一人銭七二文、馬一疋銭二〇〇文の割で計算し、それぞれ組合間で清算をする。惣代給料は一日銭三五〇文とし、高割をもって徴収するが、これらは四組六ヵ村宛の組合単位で組ごとに賄うとも定められた。

 ところが上間久里村と下間久里村は、この議定の調印を拒んだ。理由は助郷村々を四組に分け惣代給料などの高割徴収を組合単位で行なえば、石高の少ない組の負担が大きく不均衝であるとし、越ヶ谷宿役人の説得にも応じなかった。このため越ヶ谷宿では、上間久里村・下間久里村両村の議定拒否のため、伝馬業務が停滞したとしてこれを道中奉行所に出訴した。奉行所の裁許は早く、同年四月申渡しがあった。このときは、上間久里村ほか一村の申立ては成立せず、両村の名主は手鎖の罰、年寄は急度御叱の罰に処せられ、一件は一応落着した。ここで越ヶ谷宿助郷は、改めて議定書をとりかわしたが、これは札揚会所入用金の一部見積予算の変更を除いては、前回の助郷勤方議定の再確認でもあった。