文政十年の争論

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越ヶ谷宿助郷は、文政五年の約定にもとずき、札揚会所を設け、かつ四組五日代り四人宛の廻り惣代勤めを実施した。さらに助郷勤めは、六ヵ村宛四つの組合単位で運営されることになったので、各組ではさきにきめられた〝助郷勤方議定〟にもとずき、組ごとの議定をとり結んだ。

 これを四町野村をはじめ、袋山村など六ヵ村で構成されている三番組の例でみると、伝馬費用として月々高一石につき銭五〇文づつの割合で前金を徴収する。惣代給料ならびに眤懇(じっこん)(貴人などの随行者に与える祝儀金)分は、伝馬費用とは別箇に同じく高割合で徴収する。正勤人馬には人足一人につき銭一〇〇文、馬一疋につき銭二五〇文を伝馬費用積立金のなかから与える。出勤しても詰上り(流人馬)となった人馬には、人足一人につき銭七二文、馬一疋につき銭二〇〇文を同じく積立金のなかから与える。風雨や日暮になって逃去った者からは、過怠金として人足一人につき銭二〇〇文、馬一疋につき銭四〇〇文を徴収し、これを伝馬費用積立金に入れる。三番組以外の人馬勤めをして勤切手を受けても、三番組ではこの分は支払わない。御朱印・御証文の無賃勤めをした者には、一人につき銭七二文を与える、とある。

 これはあらかじめ見積られた伝馬費用を積金という形で先払いしておき、人馬勤めのつどその伝馬賃銭が各人に還元される仕組で、伝馬請負制の方法とかわりはない。しかしこの先払いの積金は、高一石につき一ヵ月銭五〇文、一ヵ年では銭六〇〇文であったので、困窮の農民にとっては大きな負担額であり、その徴収は困難であった。たとえば、三番組の砂原村では、一ヵ月高一石につき銭五〇文の徴収額に対し、一ヵ月高一石につき銭一八文宛の積金にしてほしい、この不足額は人馬勤過不足平均調べのときに、間違いなく清算すると願っている。しかも高一石につき銭一八文宛の積金も、当時越ヶ谷町塩屋吉兵衛から立替え借用をしていた。他の村々も砂原村と同様な状態であったと思われる。

 そして文政十年になると、こんどは伝馬取扱い者が各組の惣代であったため、組ごとの単位による各組小前百姓対各組助郷惣代との対立が表面化し、なかには訴訟争論に進展するところもあった。たとえば三番組では、文政十年三月小前百姓一同が助郷惣代の伝馬勤めのやり方を不満としてこれを奉行所に出訴している。その主な申立てをみると、

 (1)札揚会所には四組五日代り、二人宛の札揚人が、村々小前百姓のなかから順番に勤めてきたが、近頃札揚会所を小前百姓に相談もなく突然廃止してしまった。

 (2)伝馬需用の見込触当が悪いので、詰上り人馬が続出している。このため伝馬費用が増大し、高一石につき銭一貫三〇〇文の出費にも及んだので、小前百姓は困窮している。

 (3)三番組の議定によると、高一石につき、銭六〇〇文宛で伝馬費用を賄い、たとえ不足が生じても惣代が責任を負うとあるので、小前百姓は苦しいなかから月々高一石につき銭二〇文から銭三〇文宛、やりくりしながら積金してきた。ところが勘定書をみると高一石につき一年に銭一貫文以上にも及んでいる。これは議定違反でもある。

 (4)御朱印・御証文の無賃人馬勤めのうち、無賃人馬の許可数を超えた分が賃銭で払われることがあるが、これを助郷人馬に割渡していない。

 ということである。これに対し、三番組の助郷惣代は、

 (1)札揚会所の札揚人に出勤する者は、無高の者や無筆の者が多かったので、札揚会所の機能が果せなかった。半年か一年を限って札揚人を指定しておき、業務に馴れた者がこの役を勤めるように掛合っても、小前層は承知しない。このため札揚人給料その他の経費が金四〇両も無駄使い同様の始末であったので、一時札揚会所を中止したのである。

 (2)小前百姓のなかには、駄賃稼ぎをもっぱらにして、助郷伝馬には不参する者もいる。このため人足一人銭二、三百文、馬一疋銭四、五百文の雇い人馬を使うので、伝馬積金が高一石につき銭一貫文以上の割になるのは当然である。

と反論している。すでにこのときは、文政五年の約定によって設けられた札揚会所も廃止され、伝馬費用の軽減をはかった五日代り四組による当番惣代制も大きくゆらいでいたことが知れる。

 三番組でおこされたこの争論の結果はつまびらかでないが、他組の小前百姓も一せいに抵抗を示し、人馬の触当があっても出勤しようとはしなかった。このため越ヶ谷宿の伝馬継立は混乱し、道中奉行所から役人が出張して調査の結果、宿役人ならびに助郷惣代が始末書をとられる始末であった。