助郷差村一件

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助郷村が助郷の免除を願い、あるいは休役を願いでるときには、かならず代りの村を名差してこれを願うことになっている。これを〝助郷差村〟という。

 元禄九年(一六九六)九月、越ヶ谷宿の助郷に指定された西方村は、瓦曾根溜井の地元村であり、用水の圦樋普請・堤防普請など、溜井廻りの労役が多かったので、助郷役の免除を望んでいた。しかし当時西方村は古河藩の領地と一部は旗本万年佐左衛門の知行所であったので、助郷免除の訴願手続きがむずかしく、これを願いでることが容易でなかったし、これを願いでてもそのたびに却下されてきた(以下特に断らない限り西方村「伝馬天」「伝馬地」による)。

 その後、元禄十一年西方村は万年領を除いた古河藩領が幕府領に復した。西方村はこれを機会にまた関東郡代伊奈半左衛門役所に、再三にわたり課役の過重を訴えて助郷の免除を願った。このうち享保九年(一七二四)の助郷免除願いによると、西方村の一ヵ年間の課役は、これを人足になおすと溜井課役五八〇〇人、諸組合課役二五〇〇人、助郷課役二三〇〇人で合せて一万六〇〇人に及んでおり、他村にくらべると西方村の課役負担はいちじるしく重いと主張している。これに対し、伊奈半左衛門役所では、近いうちに助郷村の組替えが行なわれるからそれまで待つようにと願書を却下した。

 業をにやした西方村は、享保十一年二月、伊奈半左衛門役所を通さず、道中奉行稲生下野守役所へ直接助郷免除の願書を提出した。願書は幸い受理され、奉行所調査のうえ同年三月、西方村の助郷課役は全高免除を許された。その代りとしてそれまで助郷をまぬがれていた上間久里村・川崎村・下間久里村・向畑村の四ヵ村が新たに越ヶ谷宿の助郷に組替えられた。新たに助郷村に指定された向畑村・川崎村の両村はこれを不満とし、その後しばしば西方村を差村として伊奈半左衛門役所に助郷村差替えの訴願を続けた。しかし伊奈半左衛門役所はこの願書をいずれも却下し、助郷の差替えを許さなかった。

大正期の瓦曾根溜井堤(越ヶ谷原与四郎氏提供)