延享元年の差村争論

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寛保三年(一七四三)、幕初から当地域の幕領支配を続けてきた関東郡代伊奈半左衛門に代り、向畑村・川崎村ならびに西方村などの諸村は、代官柴村藤右衛門の支配所になった。向畑・川崎両村はこれを機会に、翌延享元年十一月、西方村・瓦曾根村・大吉村の各村を差村として、道中奉行遠藤六郎左衛門役所に助郷免除を出訴した。両村の助郷免除願いの主な理由の一つは、越ヶ谷宿問屋場までの道程が二里余の村で人馬の往復に時間がかかること、もう一つは、享保十一年から年久しく西方村の代り助郷を勤めてきたので、すでに交替の時期がきていることなどをあげている。

川崎の農道

 これに対し、道中奉行所ではこの願書を代官柴村藤右衛門の役所に廻し、関係村々の調査を命じた。代官役所では早速差村となった西方・瓦曾根・大吉の三村役人を招喚して事情の聴取を進めた。このときの西方村の答弁は、

 (1)西方村は瓦曾根溜井の地元村であるので、普請課役が多いこと。

 (2)出水のときは、そのつど水防道具を調達し、水防人足を動員して瓦曾根溜井下郷一〇万石の耕地を水害から守っていること。

 (3)西方村は享保十一年に道中奉行稲生下野守によって助郷を免除された。瓦曾根村と大吉村は同年伊奈半左衛門によって助郷を免除された。同じく助郷を免除された村でも、西方は日光道中越ヶ谷宿をはじめ、水戸道中新宿町の当分助郷をしばしば勤めてきたが、大吉・瓦曾根両村は当分助郷を命ぜられたことがない。したがって現在でも西方村は他村にくらべると課役の負担が大きいので、このたびの助郷差村から西方村を除いてほしい。

 と願っていた。