寛延二年の差村争論

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延享元年の助郷免除願いを却下された向畑・川崎の両村は、代官柴村藤右衛門支配から、代官船橋安右衛門支配に代ったのを機会に、寛延二年(一七四九)四月、こんどは西方村一村を差村として道中奉行遠藤伊勢守役所に助郷免除を再出訴した。道中奉行所からこの願書を廻された代官役所では、西方村役人を召喚し、溜井課役その他の証拠書類を提出させてこれを道中奉行所に回付した。

 奉行所では翌寛延三年三月、西方村の言い分を認め、向畑・川崎両村の願いを却下したが、このとき両村の助郷免除願い惣代の向畑村組頭源蔵、川崎村組頭七郎兵衛はこれを承知せず、再出訴に及ぼうとした。奉行所では種々理解を申し聞かせたが両名は強情にこれを拒否したので、奉行所の吟味をうけ、不法訴願の罪で入牢処分に付された。両名は入牢中病死をとげ、両村にとっては大変な騒ぎであったという。