安永二年の差村争論

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享保十一年から新たに越ヶ谷宿の助郷を勤めてきた四ヵ村のうち、こんどは上間久里村が、安永二年(一七七三)九月、西方村を差村にして道中奉行安藤弾正少弼役所に助郷免除を願って出訴した。

 この訴状によると、上間久里村が西方村を差村にした理由は、上間久里村は西方村の代り助郷として長期にわたり勤めており、西方村の長期にわたる助郷休役は納得できないということであった。さらに上間久里村が助郷を免除されれば、村内日光道にかかる板橋三ヵ所を自普請所に改めてもよいとの附帯条件を示していた。

 これに対し奉行所は願村、差村を招喚し取調べにあたったが、この争論で焦点になったのは、西方村が助郷村組替えのときの免除村か、あるいは訴願による差替村であるかであった。これについて奉行所では、越ヶ谷宿役人をはじめ関係村々の役人を呼んでそれぞれ論述を展開させた。

 関係村々による論述は、いずれも西方村は助郷免除願いによって享保十一年三月十九日に、道中奉行稲生下野守によって助郷を免除されたものであり、その代り役として上間久里村ほか三ヵ村が同年三月二十一日に代助郷を命ぜられたものである。ついで同年十月、助郷村組替えにあたり、大吉村と瓦曾根村が助郷を免除された。それが証拠には、助郷免除日が西方村と大吉・瓦曾根両村と同一ではないとともに、西方村の助郷勤高と四ヵ村の助郷勤高とはほぼ一致している。また元禄度の越ヶ谷宿助郷村高と、享保度の越ヶ谷宿助郷村高をくらべると、享保度の新高が少ないが、この減高分が瓦曾根村と大吉村の助郷免除高に相当するものである。したがって、西方村は助郷村の組替えによる助郷免除村ではなく、助郷免除の訴願によって休役となった村であり、上間久里村はじめ四ヵ村は西方村の代助郷に相違ないと証言した。

 因みに、元禄度の越ヶ谷宿助郷村高は、高一万二三七一石であったが、享保度の新高は、高一万一八〇七石でありその減石分は高五六四石である。この減石高に相当するといわれる大吉・瓦曾根両村の助郷免除高は高八八四石であり、両者の石高はかならずしも一致しない。また西方村の助郷勤高は、当時高一五二五石であり、西方村の代り助郷であると主張する上間久里村ほか三ヵ村の合計勤高は一六二二石である。したがってこれも高一〇〇石近い違いがみられ、大吉・瓦曾根など関係村々の見解による証言が果して正しかったかは断定できない。

 いずれにせよ、不利な立場にたった西方村は、こんどは諸課役などの過重を主張して必至な抗弁につとめた。このときの奉行所吟味は、訴願から裁許の申渡しまでに、論所地改役人の村柄見分などで時日が費され、一年六ヵ月にわたった。西方村「伝馬天」のうち「上間久里村ゟ助郷差村御糺一件書物」によって、安永三年二月から同年三月にわたっての奉行所における取調べの一端をみるとつぎのごとくである。なお取調べにあたった当時の役人は奉行所留役大原四郎右衛門であり、喚問されたのは西方村名主平内である。

 「両村対談致候とても、西方村にて先年上間久里村の替り役相勤め、仍て此度は西方村にて右村高都合半分は相勤むべく奉行申付る。相背くか」

 「何しに御上様より仰渡され候儀御背申儀には御座なく候得ども、先達て助郷御免の節、大吉村・瓦曾根村・拙者共村方三ヵ村一同に御免仰付られ候儀に御座候得ば、拙者共村方の替り上間久里村相勤め候儀とは存じ奉らず候、三ヵ村高と上間久里村とは格別相違に御座候、殊に先年御免の節は、溜井重役段々御吟味相済み、村役多き訳け思召しなされ御免遊ばされ候(中略)、此上助郷役仰付られ候得ば、中々村方相立ち申さず候、何分御免御願い申上げ候」

次の日の奉行所吟味では、上間久里村が助郷を命ぜられた年月を尋ねられたのに対し、上間久里村は享保十一年三月二十一日であると答えた。

 「然れば西方村の替りに相成候段相違ある間敷、此方に控これある間、いなやにおよび候ても申付成り、奉行申付候得ば残らず申付べき事なれども、此方吟味の上半分と了簡致し、いはい(違背)に及ばば重科に及び候、どうだどうだ」

これに対し西方村は、年貢の高免を申立てたが、それは何れの村方も同じであるとたしなめられた。西方村はさらに溜井廻り諸役の過重を訴えたが、

 「それは言に及ばず所役と申すもの、何れ助郷は申付ねばならぬ、どうだ、どうだ」

 「所役と仰渡され候御事に御座候得ば、何にても申上べき候様ござりませぬ」

 「平内我がはる程おもき科申付、其上丸高申付るぞ、それよりは御請け申せ」

 「はい、はい」

ついで三月十六日奉行所吟味が再開され、西方村ほか上間久里・大吉・瓦曾根各村の役人が呼出され、上間久里村が西方村の代助郷であるかないかをめぐって尋問が続けられたが、しかし各村とも西方村に不利な証言が論述されたのは前記のごとくである。

 「西方あの通りだ、申付候、どうだいはい致すか、う(請)けよ、うけよ」

 「私共は極窮の村方に御座候故、此上助郷役勤め候ては百姓相続しがたく候に付、御請け申上げ候儀相成らず候」

 「取続出来候か勤めてみよ」(中略)

 「御請け申上げず候、何分御勘弁願い上げ候」

 「然らば上間久里村橋を上間里村申通りに掛けよ」

 「西方村の儀井堀多敷に相当り候に付、圦樋橋等夥敷御座候て、破損所も御座候得共村内普請のさい壱年壱年と入用掛り候故、年延べいたし候処、中々外村普請入用出し候義めいわくに存じ候」

 「せめて何程勤むべしとわいわれぬか、右大吉村・瓦曾根村両村証拠立てば、西方村へ勤めさせねば成らぬ、其節背くとろふ(牟)へ入る、命がないわ、立て立て」

とある。このように奉行所の取調べにあたっては、万事かけひきが大事で、うっかり恐れ入ってしまうと、そのまま口書にとられ不利になる場合が多い。惣代として喚問される訴答村役人の気苦労は一通りのものではなかったであろう。

 その後上間久里村は、西方村のほか瓦曾根・大吉・伊原・増森・鈎上新田の五ヵ村を助郷差村として願いあげたので、各村の村柄見分が行なわれ、一年半を経過して安永四年四月に道中奉行の裁許申渡しがあった。この裁許では、各差村の村柄実地検証により、差村六ヵ村とも溜井諸普請その他の過重な課役を負担し、または村柄がよくないことが判明した。それに御普請所を自普請所にする条件で助郷を免除したとあっては、幕府の権威にもかかわるので、上間久里村の願いは聞届けるわけにはいかないとして、上間久里村の助郷免除願いは却下された。