寛政十一年(一七九九)五月、さきに延享元年と寛延二年に助郷免除を訴願し、両度とも訴訟に失敗していた向畑・川崎の両村は、再び西方村を差村として、道中奉行小笠原和泉守役所に助郷免除を出訴した。奉行所ではこれを代官野口辰之助役所に廻し、訴答村々の下調べを命じた。
代官所からの差紙によって出頭した西方村は、助郷差村の喚問であることをはじめて知らされ、早速助郷差村御免願い、ならびに数回にわたる助郷差村争論の諸証拠書類を代官所に提出した。代官所では、これら書類を奉行所に回付したようであったが、その後なんの音沙汰もなく、奉行所の取調べの経過は不明であった。心配した西方村では、代官所に伺いをたてて問合せたが代官所でもその後の経過はわからないという返事であった。
こうして助郷差村をうけてから十ヵ月を経過した翌寛政十二年三月二十三日、向畑村に旅宿した奉行所の論所地改役手代鈴木栄助ほか一名のものから、突然西方村に、尋ねたいことがあるので、寛政二年から同十一年までの十ヵ年間の年貢割付状を持参し、向畑村の旅宿まで罷出るべしという差紙が届いた。驚いた西方村では、早速年貢割付状その他の書類を向畑村旅宿に持参したが、その喚問はきわめてきびしいものであったという。
論所地改役人の向畑村での逗留期間は四月九日まで十四日間に及び、西方村の実地検証ならびに諸書類の調査が行なわれた。この間、西方村では論所地改役両名の旅宿を、西方村に移すことを願ったが、川崎・向畑両村の防害にあって失敗した。諸般の状況からこの度の差村争論は容易なものではないと知った西方村は、連日会合を開いて協議を重ね、慎重な戦術をねって論所地改役の尋問に応待した。
ついで現地調査から十一ヵ月を経過した翌寛政十三年(享和元年)二月、道中奉行所から訴答村々に招換状が発せられた。訴答村役人惣代は、江戸馬喰町の江戸宿を宿所にして奉行所に出頭し、着到の諸手続きをすませた。奉行所の取調べは二月十九日から二十九日までの十日間続けられ、口書の調印が終って三月九日に裁許の申渡しがあった。
このときの争論の焦点は、さきに論所地改役による現地調査のとき、西方村が調印した口述書と、奉行所から示された口述書と相違があることを西方村が指摘して、奉行所白洲ではげしく争われた。西方村は、はじめこの相違した奉行所の口書の捺印を拒み、追訴願書をもって西方村の過重な課役と西方村農民の窮状を訴え、改めて取調べを願うことを申出た。しかし追訴願書は差戻しとなり、西方村は苦境にたたされた。
このときの取調べ掛りは奉行所留役吉岡虎次郎(次郎右衛門)であり、西方村の筆頭惣代は名主平内である。平内は奉行所白洲で、
「恐れながら申上げます、此度差上げ候追訴の始末逸々御賢察成し下され、是又口書に御書入れ下され候様、願い上げ候」
と、すでに差戻された追訴願書の取上げを、なおも強情に願いたてた。これに激怒した取調べ掛り吉岡虎次郎は、
「不届至極、先達て申立て候儀弐ヶ条書入遣し候処、猶又品々申立る、たとえいか様申立て候とて申しおくれなり、達て相願い候得ば何分吟味致し遣すべく、ろふ内において申立てよ、今は印形こばみ候得ば入ろふ(牢)申付ぞ、さあどうだどうだ(中略)とても印形できぬのか、只今入ろふ申付る、向畑・川崎・越ヶ谷、西方ばかりおいてさがれさがれ、西方村いつまでもそこにいろ、ばんまでしらすに留れ」
と言い残して奥に入ろうとした。立会いの江戸宿は驚いて、〝今一度お腰懸けまでおさがり下さい、よく利解申し聞かせますゆえ、何とぞ何とぞ〟と願ったが無駄であった。西方村役人は入牢を覚悟して心の準備をととのえていたところ、江戸宿の再三にわたるとなりしで吉岡が白洲に戻ってきた。
そこで西方村名主平内、茂右衛門、利左衛門、年寄七郎兵衛、九平次などが改めて協議を重ねたすえ、入牢しても二十日や三十日で決着はつかないし、その間に怪我人もでるだろう。また村方の申訳に入牢するのも利益にならないだろうという結論にいたり、奉行所の口述書に調印した。この結果翌月の三月九日に道中奉行の裁許が申渡された。
この裁許の要旨は、向畑・川崎の両村は、今まで困窮を申立てて助郷の免除を訴願してきたが、この願いは取上げる訳にはいかないのでこれを却下してきた。今回論所地改役による現地見分を行った結果、両村の困窮は相違ないことが判明したので、両村村高のうち半高、合せて高三一三石を助郷勤高から免除する。この高三一三石の両村免除高は、西方村が代ってこれを勤める、との申渡しであった。
こうして享保十一年から助郷を免除されていた西方村は、度重なる助郷差村争論を経て、享和元年に助郷勤高三一三石の越ヶ谷宿代助郷に組入れられたのである。なお西方村に転嫁された助郷勤高三一三石の内訳は、向畑村が高一六八石、川崎村が高一四五石である。